1941年頃:太平洋戦争期(国策炊き、炒り炊き)
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「節米料理」の記事における「1941年頃:太平洋戦争期(国策炊き、炒り炊き)」の解説
太平洋戦争期(1941年開戦)には戦局の激化により日本が孤立状態を強いられ、国外からの物資を期待できなくなったことから、節米運動も次第に必死の様相を帯び始めた。 この時期の節米食としてよく知られているのが「国策炊き」である。これは熱湯により米を膨張させて飯を炊く方法で、炊き上がった量は通常の飯と比べて3割ほど量が増す。当時の外務次官である西春彦が女性雑誌『婦人之友』の誌上で、国策炊きを日本の全家庭で実行することで外米を不要とし、その分の輸送力を戦争へ向けることを呼びかけるなど、政府もこの国策炊きの普及に乗り出していた。また警視庁までもが、警官200人が自宅で3日間実験して成功したと発表するなど、普及に協力していた。1944年(昭和19年)に六大都市の国民学校で給食が実施された後は、小学4年生以上の生徒にこの国策炊きの握り飯が配られた。この調理法は、あくまで水分で見かけの量が増すに過ぎず、栄養価やカロリーは何ら変わることはないため、食べた後にすぐに空腹になるという欠点がある。しかし、そうした合理性云々よりも、多くの子供を抱えるような家庭では人数分の食事を用意することや、食後の満腹感が重要だったと見る向きもある。 同様に米の量を水増しする調理法として、炒った玄米に水を一晩吸わせて炊き上げる「炒り炊き」もあった。これはかつての武将の楠木正成の発明とされることから「楠公飯(なんこうめし)」とも呼ばれる。女性雑誌『主婦の友』の当時の記事では、食べ盛りの男子4人を抱える家庭がこれにより米不足を解消したとあるが、実際には、香ばしいものの味が悪く、「苦くて、すぐやめた」「水っぽくてまずい」、弁当にすると昼食時には「中には白濁した水がたまり、ふやけたご飯粒が隅に沈んでいた」という体験談もある。膨化させた米に水を吸わせただけでは、食品としての価値を大幅に下げてしまうようである。 小学生が学校に持参する弁当はサツマイモやジャガイモなどの代用食が普通であり、空腹に喘ぐ子供たちも多かった。
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