1941年頃:太平洋戦争期とは? わかりやすく解説

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1941年頃:太平洋戦争期(国策炊き、炒り炊き)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 00:30 UTC 版)

節米料理」の記事における「1941年頃:太平洋戦争期(国策炊き炒り炊き)」の解説

太平洋戦争期1941年開戦)には戦局激化により日本孤立状態強いられ国外からの物資期待できなくなったことから、節米運動次第必死様相帯び始めた。 この時期節米食としてよく知られているのが「国策炊き」である。これは熱湯により米を膨張させて飯を炊く方法で、炊き上がった量は通常の飯と比べて3割ほど量が増す。当時外務次官である西春彦女性雑誌婦人之友』の誌上で、国策炊き日本全家庭で実行することで外米不要とし、その分輸送力戦争へ向けることを呼びかけるなど、政府もこの国策炊き普及乗り出していた。また警視庁までもが、警官200人が自宅3日実験して成功した発表するなど、普及協力していた。1944年昭和19年)に六大都市国民学校給食実施された後は、小学4年生上の生徒にこの国策炊き握り飯配られた。この調理法は、あくまで水分見かけの量が増すに過ぎず栄養価カロリー何ら変わることはないため、食べた後にすぐに空腹になるという欠点がある。しかし、そうした合理性云々よりも、多くの子供を抱えるような家庭では人数分の食事用意することや、食後の満腹感重要だったと見る向きもある。 同様に米の量を水増しする調理法として、炒った玄米一晩吸わせて炊き上げる炒り炊き」もあった。これはかつての武将楠木正成発明とされることから「楠公飯(なんこうめし)」とも呼ばれる女性雑誌主婦の友』の当時記事では、食べ盛り男子4人を抱え家庭がこれにより米不足を解消したとあるが、実際には、香ばしいものの味が悪く、「苦くて、すぐやめた」「っぽくてまずい」、弁当にすると昼食時には中には白濁したがたまり、ふやけたご飯粒が隅に沈んでいた」という体験談もある。膨化させた米にを吸わせただけでは、食品として価値大幅に下げてしまうようである。 小学生学校持参する弁当サツマイモジャガイモなどの代用食が普通であり、空腹喘ぐ子供たち多かった

※この「1941年頃:太平洋戦争期(国策炊き、炒り炊き)」の解説は、「節米料理」の解説の一部です。
「1941年頃:太平洋戦争期(国策炊き、炒り炊き)」を含む「節米料理」の記事については、「節米料理」の概要を参照ください。

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