1941年末~1942年初旬の冬
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「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事における「1941年末~1942年初旬の冬」の解説
ドニエプロペトロフスクを出発した第373ワロン歩兵大隊は、ドイツ軍の進撃によってサマラ(Samara)地方の戦線後方に散らばったソビエト赤軍残存部隊やパルチザンの掃討活動を行うため、1941年11月中旬から1942年2月にかけては主に戦線後方での任務を割り当てられた。この時期のドイツ軍上層部はワロン大隊を戦闘部隊ではなく政治的な存在と見なしており、大規模な作戦に参加させることに躊躇していた。 1941年11月13日、パヴログラード(Pavroglad)におけるパルチザンとの戦闘で、大隊は初の戦死者を出した。また、12月1日にはグリチノ=セロ(Grichino-Selo)で、第4中隊長ルネ・デュプレ大尉が地雷を踏み、ワロン人部隊の将校初の戦死者となった。 12月10日、第373ワロン歩兵大隊はドイツ陸軍第101猟兵(軽歩兵)師団(101. Jäger-Division)に配属され、アテモスク=ゴルロフカ(Atemosk-Gorlowka)周辺のドイツ陸軍第3軍団(III. Armeekorps)の防衛線に組み込まれた。 この頃におけるロシア南部の凄まじい冬の気候は、不十分な訓練および不足がちな防寒衣類と相まって大隊に多くの人的損害を与えていた。50歳を超える老齢の隊員(大隊指揮官ジョルジュ・ジャコブ上級大尉および中隊長3名含む)は除隊し、ベルギーに帰国した。さらに、友軍であるドイツ軍将兵からのワロン人義勇兵に対する軽視や、大隊内でのレクシズム支持者とそうでない者との間の不仲も大隊の士気に好ましくない影響を与えていた。 1942年1月1日、除隊となった大隊指揮官ジョルジュ・ジャコブ上級大尉の後任として、B.E.M.(Breveté d'Etat-Major、「陸軍参謀大学卒業証書を所有する将校」)の元ベルギー陸軍将校ピエール・ポーリー大尉(Hptm. Pierre Pauly)が着任した。この時点における第373ワロン歩兵大隊の戦闘序列は次の通り。 第373ワロン歩兵大隊(Wallonische Infanteriebataillon 373)(1942年1月1日) 大隊指揮官 ピエール・ポーリー大尉(Hptm. Pierre Pauly) 大隊本部 リュシアン・リッペール中尉(Olt. Lucien Lippert)、レオポルド・ティス少尉(Lt. Léopold Thys) 各種医療部隊、カトリック従軍司祭、ドイツ人連絡将校 第1中隊 アルフレッド・リザン少尉(Lt. Alfred Lisein) 第2中隊 ジョゼフ・ドルネ少尉(Lt. Joseph Daulne) 第3中隊 ゲオルゲス・チエーホフ大尉(Hptm. Georges Tchekhoff) 第4中隊 アルトゥール・ブイズ中尉(Olt. Arthur Buydts) 1942年1月26日、ドニエプロペトロフスク近辺の防衛線に組み込まれていた第373ワロン歩兵大隊はサマラ川に向かって移動した。
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