第二次エル・アラメイン会戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:24 UTC 版)
「エル・アラメインの戦い」の記事における「第二次エル・アラメイン会戦」の解説
英軍はM4中戦車300両を陸揚げするなど、兵員数・戦車数で枢軸軍の二倍以上の数を集めたが、勝利を確実にするため大規模なカモフラージュ作戦を行った。南方から攻めるように見せかけて実際には北側から攻めることを秘匿するためと、攻撃開始時期が差し迫っていないと思わせるために、偽補給品集積所をはるか南方後方に設置。戦車・大砲は張りぼてを置く一方、本物はトラックに偽装。偽水道パイプラインを南方に延伸した。モントゴメリーはチャーチルに行動をせっつかれていたが、増援が毎週スエズ運河を遡ってくるので、制空権と制海権という傘の下で着々と準備を整えていた。 10月23日、モントゴメリーは1000門以上の砲で一斉砲撃を開始した。この時の連合軍の砲の数と火力は、海空の戦力と同じく敵を凌いでいた(英軍2300門、枢軸1350門(内850門はイタリア軍))。さらに、第8軍の砲兵連隊は、戦場に散開せずに集中して強力な集団を形成していた。1200両以上の戦車の内500両は強力なシャーマン戦車やグラント戦車で、火力、航続距離、装甲ともにドイツ・イタリア軍装甲師団を上回っていた。ただ、ロンメルの敷設した地雷の除去などで当初進軍は捗らなかった。 騙されたドイツ軍はロンメルが持病の治療のために帰国したままで奇襲を受け、代理指揮官のシュトゥンメ将軍が戦死する。ロンメルは急いで北アフリカに戻ったが、あらかじめ敷いてあった「悪魔の園」と呼ばれる地雷原や構築した陣地も英軍指揮官バーナード・モントゴメリーの巧みな戦術で突破された。物量的に不利な戦いの中でロンメルは善戦したが、戦車不足と敵の物量に追い詰められていった。唯一対抗できるのは88mm高射砲だったが、それも度重なる戦いで24門を残すのみとなった。 ロンメル不在の10月23日から11月1日にかけて、連合軍の反攻を効果的に阻害したのはイタリア陸軍であった。南部地区を守る第185空挺師団『フォルゴーレ』(イタリア語版)は兵力比1:13、戦車比1:70、歩兵用の対戦車装備は火炎瓶と地雷だけという状況にもかかわらず、肉薄攻撃によって連合軍の戦車部隊に損害を強要し、本格的な攻勢を2度に渡って退けている。イタリア軍部隊の思わぬ抵抗とそれによる損害を知ったチャーチルは「彼らは獅子の如く戦った」と賞賛したと言う。ただし同師団の損害も著しく、DAKと共にイタリア軍がこの地を撤退したときには壊滅状態であった。 11月2日、ロンメルは更なる敵の大攻勢を知って撤退を決意した。この戦いにおいてモントゴメリーは全面攻勢をかけ、容赦ない圧力をかけていた。ロンメルは連合軍の攻撃を掻い潜り、英軍が把握していないような道を通り、主力をフカの防衛線まで撤退させる事に成功した。ロンメルは3日、アドルフ・ヒトラーからの命令を受け取った。内容は「現在地を死守し不退転の決意で戦うべし」というものだった。 最前線にいた将校はロンメルにいかに状況が絶望的であるかを報告した。どの師団も消耗が激しく、兵員は1000を数えれば良い方であった。高級将校すら車輌の不足で徒歩で司令部に向かう状況だった。こうしている間にも連合軍は米国から大量の増援を受けていた。 11月4日にロンメルは総退却命令を出した。連戦連勝を誇ったドイツアフリカ軍団にとって初めての大敗北となった。 以後枢軸軍は次々と防衛線を突破され、アルジェリア、モロッコへの連合軍の上陸作戦(トーチ作戦)の成功により翌年にはチュニジアに追い詰められ、北アフリカから姿を消す。大勝利の知らせを聞いたイギリス首相チャーチルは、「これは終わりではない、終わりの始まりですらない、が、おそらく、始まりの終わりであろう。」と語った。後に「エル・アラメインの前に勝利無く、エル・アラメインの後に敗北無し」と言われる、歴史の転換点となった。 今回の英軍の勝利を単に“兵力の優位”と言い切るのは、あまりに単純すぎる。クレタ島やトブルクで苦戦した時よりも連合軍の指揮統制システムは格段に向上しており、ドイツ軍を欺くための欺瞞作戦についてもモントゴメリーとその広報チームの苦労と深慮が報われた。
※この「第二次エル・アラメイン会戦」の解説は、「エル・アラメインの戦い」の解説の一部です。
「第二次エル・アラメイン会戦」を含む「エル・アラメインの戦い」の記事については、「エル・アラメインの戦い」の概要を参照ください。
- 第二次エル・アラメイン会戦のページへのリンク