第二次オリックス時代
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2021年2月6日に、オリックスとの契約へ合意したことが正式に発表された。推定年俸1億5000万円に出来高分を加えた1年契約で、背番号については、オリックスがMLBへの在籍中に空き番号として扱ってきた「16」を再び着用する。 2021年2月8日付で、NPBから支配下登録選手として公示。同月10日に春季キャンプ地の宮崎市内で開かれた入団記者会見に「気合を込めた」という丸刈り頭で登場すると、契約期間が満了する2022年以降のMLB再挑戦を全く考えていないことを明言した。さらに、オリックスへの復帰に至った経緯も説明。「オリックス(の球団関係者)には、MLBへ移ってからも、1年目から何かと気に掛けていただいた。『MLBで現役生活を続けたい』という気持ちはもちろんあったが、『オリックスへ戻るなら(MLBのFA市場が停滞している)このタイミング』という気持ちへ変わりつつあったので、コロナ禍で厳しい状況のなか(自分を)快く迎えてくれたことに感謝している。『(オリックスへの恩は)優勝でしか返せない』と思うので、身体がボロボロになるまで、オリックス優勝のために頑張りたい。そして、(自分のような30代後半の)『オジサン』が若い子(若手選手)へ負けないように頑張っているところを、日本のファンの皆さんに見てもらいたい」との抱負を述べた。 春季キャンプ中に再入団が決まったことから、2月12日にはブルペンでの調整を開始。オープン戦5試合の登板を経て、レギュラーシーズンの開幕一軍入りを果たした。3月26日の西武との開幕戦(メットライフドーム)で8回表に登板したことによって、NPB/MLB公式戦通算700試合登板を達成。4月8日の対ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)では、4点リードの9回裏2死満塁で登板すると、荻野貴司を6球で凡退させたことによってNPB公式戦1286日ぶりのセーブを挙げた。後に首を痛めたため、同月16日付で出場選手登録を抹消。当初は最短での一軍復帰を目指していたが、調整の途中で同じ個所を再び痛めたことから、実戦での再登板は5月下旬にまで持ち越された。セ・パ交流戦で一軍のクローザーへ復帰すると、登板した6試合をすべて無失点で凌ぎながら4セーブを記録。レギュラーシーズン全体では、一軍公式戦46試合の登板で1勝3敗、29セーブ、3ホールド、防御率2.30を記録するとともに、オリックスとしては1996年以来25年ぶりのパ・リーグ優勝へ貢献した。ポストシーズンでは、ロッテとのCSファイナルステージ第2戦(11月11日)で9回表に登板すると、CSとしては2014年以来自身7年ぶりのセーブを記録。東京ヤクルトスワローズとの日本シリーズには、11月25日の第5戦(東京ドーム)9回裏と、同月27日の第6戦(ほっともっとフィールド神戸)延長10回表に登板した。日本シリーズでの登板はプロ16年目にして初めてであったが、2試合とも1イニングを無失点に抑えていて、第5戦ではシリーズ初セーブを挙げている。チームは第6戦で延長12回の末に日本シリーズ制覇を逃したものの、自身は12月16日に推定年俸2億円(前年から5000万円増)という条件で契約を更改。更改後の記者会見では、「(オリックスでもMLBでも)優勝したことがなかったので、『優勝する』という一番の目標を達成できただけでも、オリックスに帰ってきて良かった」と述懐した。 2022年には、4月26日の対日本ハム戦(東京ドーム)でリーグトップ(7個目)のセーブを挙げたことによって、NPB/MLB公式戦での通算セーブ数が200に達した。日本人の投手としては6人目の記録だが、NPBからMLBを経てNPBへの復帰後に到達した投手は平野が初めてである。さらに、6月2日の対DeNA戦(横浜)で、NPB史上7人目の一軍公式戦通算200セーブを史上最年長の38歳2ヶ月で達成した。
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第二次オリックス時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 21:05 UTC 版)
2014年は、3月28日の対北海道日本ハムファイターズ戦の開幕戦において(5番・左翼手)として先発出場し、巨人時代の2008年以来6年ぶりの開幕スタメン出場を果たした。3月30日の対日本ハム戦で、4回表に武田勝から、左線二塁打を放ち移籍後初安打を記録した。しかしその後打撃不振から4月20日に出場選手登録を抹消され、そのまま最後まで昇格はないままシーズンを終えた。チームは6年ぶりに2位と躍進したものの、最終的に一軍出場自己ワーストの9試合の出場でわずか2安打に終わり、打点を記録することはできないなどオリックス復帰1年目は不本意な成績で終えた。 2015年9月16日、京セラドーム大阪で会見を開き、今季限りでの現役引退を発表した。10月3日に、京セラドーム大阪で行われた引退試合(対ソフトバンク戦)で、7回1死1塁で代打で登場。武田翔太が投げた初球を打ち、現役最終打席を通算1928本目の安打(日本プロ野球名球会への入会基準である通算2000本安打まで残り72)で締めくくった。12月2日付で、日本野球機構(NPB)から自由契約選手として公示された。
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第二次オリックス時代
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「フランシスコ・カラバイヨ」の記事における「第二次オリックス時代」の解説
2015年2月16日にオリックスが獲得を発表し、3年ぶりの復帰となった。背番号は前回在籍時につけていた91がすでにアレッサンドロ・マエストリがつけていたため、99となった。なお、99が外国人選手に割り当てられるのは、ブルーウェーブ時代の1998~2000年にトロイ・ニールがつけて以来15年ぶりのこととなる。チームに故障者が続出する中で春先は4番に座り、5月までに11本塁打を放ったが、6月以降は数字を残せず出場機会を減らし、12月2日に自由契約となった。 オフには、第1回WBSCプレミア12のベネズエラ代表に選出された。
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