第二次オボテ政権と国民抵抗軍
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「ヨウェリ・ムセベニ」の記事における「第二次オボテ政権と国民抵抗軍」の解説
ムセベニは支持者とともにバントゥー系が優勢である南部及び南西部の故郷に戻り、民衆抵抗軍 (PRA) を結成した。彼らは第二次オボテ政権とウガンダ民族解放軍 (UNLA) への反乱を企てた。暴動は1981年2月6日に中西部のムベンデ県の軍施設への攻撃で始まった。PRA はユスフ・ルレのウガンダ自由戦士 (UFF) と統合し国民抵抗軍 (NRA) となり、政治部門を国民抵抗運動とした。別の2つの反乱軍・ウガンダ国民救済戦線 (UNRF) と元ウガンダ国軍 (FUNA) も西ナイル地方でアミン支持者の残党により結成され、オボテの軍と交戦した。 国民抵抗運動/軍は長期政権のための「10項の目標」(民主主義の回復、治安、国民統合の強化、独立の維持、独立して統合された自律的経済の確立、社会サービスの改善、腐敗と権力濫用の根絶、不平等の縮小、アフリカ諸国との協力、混合経済)を掲げた。 1985年7月までにアムネスティ・インターナショナルはオボテ政権下でのウガンダでの死者を30万人以上と見積った。CIAのザ・ワールド・ファクトブックでは10万人以上としている。人権団体は1982年以来の人権状況を改善するように度々抗議を行った。特に人権侵害が目立ったのはウガンダ中央部のルウェロ三角地帯であった。この期間のウガンダからの報告によりオボテ政権は国際的な批判を受け、ムセベニの反政府勢力への海外からの支援を増大させた。ウガンダ国内では北部出身者特にランゴ族とアチョリ族が優勢な UNLA に対抗する暴動への残忍な鎮圧に、NRA と共にウガンダの最大の民族であるブガンダが巻込まれた。ミルトン・オボテはルウェロでの人権侵害を NRA のせいにしたまま2005年に亡命先の南アフリカで亡くなった。
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