第二次オボテ政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 23:36 UTC 版)
「ウガンダ人民会議」の記事における「第二次オボテ政権」の解説
1979年にイディ・アミンが打倒されるとオボテとUPCは暫定軍事政権に近づき、ウガンダ南部で支持拡大よりも軍事的な手段を用いた。北部出身者の多い軍が南部で残虐行為を行い、南北対立が激化する中でUPCは北部の政党として認識されるようになった。南部人は民主党支持となり、またUPC党員であったヨウェリ・ムセベニは少数政党のウガンダ愛国運動を結成した。 1980年の選挙はUPCが軍事政権を利用して不正を行った疑いが強かった。UPCの勝利が宣言され、軍事委員会議長のパウロ・ムワンガが副大統領に指名されると、更に疑念が強められた。ムセベニは選挙結果を拒否して薮の中から内戦を開始した。 ムセベニはUPCのつくり出した南北対立により支持を伸ばし最終的に勝利した。より多くの南部出身者が権利を守るために武器を取った。南部出身者は植民地時代には軍から排除されていた。1986年にムセベニは権力を掌握した際にはその軍は南部の特に西部出身者が多かった。またオボテ政権時に抑圧されていたルワンダ人もその中枢を占めていた。
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