ナイロビ合意
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1985年7月27日UPC内部の派閥争いでクーデターが起こりアチョリのバジリオ・オララ=オケロ及び元司令官のティトー・オケロがオボテに代わった。これに対しムセベニとNRM/Aは第二次オボテ政権に対する4年間の革命闘争が人権侵害を重ねてきた信用ならないUNLAに「乗っ取られ」たと怒った。しかしこれに拘らず、NRM/Aはケニアのダニエル・アラップ・モイ大統領を仲介者代表とする和平交渉に臨んだ。8月26日から12月17日まで続いた交渉は不評かつ刺々しいもので、合意による停戦はほぼすぐに破綻した。ナイロビで署名された最終合意は停戦、カンパラの非武装化、NRAと政府軍の統合、およびNRA指導部の軍事評議会への吸収を求めた。これらが満たされることは無かった。 最終合意の見通しは、ケニア代表団のウガンダの状況理解の不足や適切なウガンダ人の不在、国際的な要因を含め限界があった。結局、ムセベニと完全な軍事的勝利を達成する能力があったNRAは、「尊敬ならない司令官」と権力を共有するのを拒んだ。
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