ナイル川水界とは? わかりやすく解説

ナイル川水界

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 22:06 UTC 版)

アフリカ史」の記事における「ナイル川水界」の解説

ナイル川ザイールウガンダ国境から流れ出る白ナイルエチオピアタナ湖から流れ出る青ナイルからなりエジプトへと流れアフリカ大陸最長大河である。河口にはエジプト文明興った詳細について古代エジプトエジプトの歴史および各王朝記事参照エジプト中王国時代入り、ようやくエジプト記録に、エジプト文明とは異なクシ呼ばれる人々によるアフリカ王国、ケルマないしケリーマ王国についての言及なされている。ケルマ王国は、アフリカ最初黒人王国と言われ、そのピークエジプト第2中間期ごろとされる発掘調査によって、数千基に及ぶ墳丘墓集まった墓地とデフファ(deffufa)と呼ばれる巨大な日干しレンガの塔のような遺構二つ確認された。墳丘墓なかには直径91mに達するものがあり、300400人近いけにえが墓の主のためにささげられたと考えられている。東側のデフファは、墓地中にあり、礼拝堂のようなものであった考えられ西側のデフファは、交易に伴う集荷場加工製品作る工房交易つかさどる監視のような役割持っていたと推察される。西側のデフファの近くには都市的ともいえる住居遺構集中がみられた。ケルマ王国エジプト王朝同盟関係を結び、その文化と技術吸収していった。しかしエジプト新王国樹立するとその支配下組み込まれてしまい、トトメス1世時代には滅亡してしまう。 紀元前900年ごろにナイル上流ナパタ興ったクシュ王国エジプト第22王朝エジプト第23王朝滅ぼしエジプト第25王朝を開く。しかしアッシリア侵攻遭い紀元前656年滅亡ナパタへと引き上げていった。ナパタにあるジュベル・バルカル、エル・クルヌリ、サナムには、墓地神殿築かれた。特にジュベル・バルカルには、ラムセス二世築いたアモン神殿がありクシュ王国精神的なよりどころとなったナパタにあるクシュの「王墓」は、小さなピラミッド覆われる特徴があり、ミイラ作る習慣もあった。都市呼べるような大規模な集落跡があるとすればサナムであるが、それを想起させるような遺構発見されていないその後クシュ王国首都ナパタからさらに南のメロエ移動させ、そこでメロエ王朝造り上げたメロエでは太陽神アメンはじめとするエジプト神々ライオンアペデマクなどの地域神々融合した宗教観念持ちエジプト文字改変したメロエ文字使用するなど、独自の文化築き上げていった。クシュ王国メロエ遷都した理由として、農耕牧畜行える広い土地があり、製鉄を行うのに必要な燃料確保できる森林があったこと、紅海エチオピア高原、はるか西方チャド湖をつなぐ交易要衝であったこと、エジプトから政治的文化的に独立し影響力断ち切るのに都合がよいことなどの要素があったと考えられている。メロエは、1km×750mの範囲広がり内部石壁方形区切り、その区画ひとつひとつ外面焼き締め煉瓦覆った日干し煉瓦の壁を複雑に入り組ませていた。研究者たちが、「ローマ浴場」と呼ぶような凝ったレリーフ施し井戸からを引くレンガ敷き詰めたプール遺構確認されており、憩いの場としての浴場造れるほどの余裕があったことを示している。 メロエ西南西100kmほど上流にワド・ベン・ナカで相当規模の街と王宮神殿があったことが確認されている。ワド・ベン・ナカの王宮は、50m×50mの正方形をしている少なくとも二階建て建物で、真南入口があり、砂岩でできた列柱の間がエントランスとして設けられている。壁は日干しレンガ焼き締めレンガ覆い表面を白い漆喰しっくい)で塗っていた。上の階はほとんど失われていたため、その性格について正確なところはわからないが、下の階は、貯蔵施設で壺が置かれ部屋や、象牙木材置かれ部屋などがあった。また、やはりワド・ベン・ナカの南東メロエから南西100kmほどの地点にあるナカ遺跡では、二ヶ所の広大な墓地七つ石造り神殿を伴う大規模な街があったことが確認されている。神殿のうちナカマタニとアマニテレのライオン神殿外面レリーフには、エジプト風に横を向いて剣を振りかざし、捕虜の髪をつかむアマニテレ女王の姿が刻まれていて、メロエ王朝権力大きさ繁栄ぶりを描いている。 メロエ王朝遺跡からは、エジプトだけでなくギリシアローマとの影響交流があったこともうかがわれ製鉄技術アフリカ南部伝播する役目担っていたとも言われている。しかしエチオピア北部興ったアクスム王国によって4世紀頃に滅亡させられてしまう。 メロエ王朝崩壊後4世紀頃にナイル川流域ヌビア人によってノバティア王国、マクリア王国、アルワ王国という3つのキリスト教王国作られた。これらのキリスト教浸透1000年長きわたって続いたが、641年ごろより侵攻はじめたイスラム教徐々に駆逐されていき、この地域からキリスト教消滅することになる。そして13世紀後半マムルーク朝との戦争敗れたマクリアはエジプト支配下へ、ノバティア、アルワは15世紀イスラム教徒によって滅ぼされた。 そして15世紀に入ると紅海沿岸発祥とするフンジ王国設立青ナイル流域にまで勢力拡大していった。15世紀後半にはダルフール山地ダルフール王国築かれる。ともに19世紀まで存続していったが、ムハンマド・アリー朝によって滅亡させられてしまう。

※この「ナイル川水界」の解説は、「アフリカ史」の解説の一部です。
「ナイル川水界」を含む「アフリカ史」の記事については、「アフリカ史」の概要を参照ください。

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