ダルフール王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/06 06:31 UTC 版)
詳細は「ダルフール王国(英語版)」を参照 ダジュ人がダルフールの主要な民族の中でマーラ山地の住民として最も早い時期に現れた。彼らがどのぐらいの間地域を治めたかは確認されていないが、代々の王の名前が残されている他には余り知られていない。伝承によればダジュ王朝はボルヌ(英語版)やワダイ(英語版)から来た恐らくアラブ系とみられるムスリムのツンジュルに置換えられた。ツンジュルの最初の王はアフメド・エル=マクルで最後のダジュ王の女婿だったとされる。アフマドは多くの首長を征服し服属させ、彼の下で国は繁栄した。 彼の曾孫のスルタン・ダリはダルフールの歴史上で重要な人物である。彼の母方はフール人だったと言われ、これにより被支配者と王朝が接近した。ダリは地域を州に分割し『キタブ・ダリ』或は『ダリ文書』と題された刑法典を定めた。これは現存しクルアーン法とはいくつか異なる。彼の孫ソレイマン(通常、フル語の渾名でアラブ又は赤を意味するソロンと呼ばれる)は1596年頃から1637年頃まで王位につき、偉大な戦士で熱心なムスリムだった。彼はケイラ王朝の創設者であるとみなされている。 ソレイマンの孫のアフメド・バクル (1682年頃 - 1722年頃) はイスラム教を国教にした。そしてボルヌとバギルミ(英語版)からの移民を奨励してさらに国を繁栄させた。彼の支配はナイル川東岸アトバラ川の堤防にまで及んだ。バクルの死後継承争いが長く続いた。バクルは死の前に多くの息子たちに交代で統治するように遺言した。彼らは一旦王位に就くとそれぞれ自分の息子に王位を継がせようとして、1785/6年まで続く断続的な内戦に至った。内紛によりワダイ王国(英語版)とセンナール王国(英語版)の戦争にも巻き込まれダルフールは衰退した。 この頃のアフメド・バクルの息子である君主達の中で最も優れた者の1人はモハメド・タイラブだった。彼は数度の成功した遠征を率いた。1785/6年にはフンジと戦ったがオムドゥルマンより先には進めなかった。彼はここでナイル川に行く手を阻まれ兵に河を渡らせる手段を見出せなかった。それでも彼は計画を諦めずオムドゥルマンに数ヶ月滞まり兵が不満を募らせ始めた。幾つかの話によればタイラブは不満を抱いた首長達に唆された妻に毒を盛られた。彼も息子に王位を継がせようとしたが、跡を継いだのは弟のアブデルラーマンだった。 アブデルラーマンはエル=ラシッドやジュスト等と渾名された。彼の統治時代にナポレオンがエジプト遠征をした。1799年アブデルラーマンはフランスの将軍がマムルークを破ったことに祝辞を寄せた。この返事でボナパルトは次の隊商でスルタンに強くて活発な16歳以上の2000人の黒人奴隷を送るように求めた。1791/2年アブデルラーマンは新しい首都エル=ファーシルを建設した。それ以前の都はコッブと呼ばれた場所にあった。 しばらく彼の息子のモハメド=エル=ファダルは精力的な宦官モハメド・クッラの影響下にあった。彼は最終的に権力を回復し彼の治世は1838年まで続いた(彼はその年にハンセン病で死んだ)。彼は主に田舎に住んでいた半独立のアラブ系の氏族(特にリザイカート)の服属に専念し、その内の数千を殺した。1821年に彼はコルドファン州を失った。同年にコルドファンはメフメト・アリにスーダンを征服するように命令されたエジプト人に征服された。ケイラは軍隊を派遣したが、1821年8月19日にバラの近くでエジプト人に撃退された。エジプト人はダルフール全体を征服する意図だったが、ナイル地域で彼らの支配を固めることが困難だったため、彼らはやむを得ずその計画を諦めた。 アル=ファダルが1838年に死ぬと、彼の40人の息子から3男のモハメド・ハッサンが跡を継いだ。ハッサンは信仰書を書いたが貪欲な男だった。1856年に彼は失明した、そして彼の残りの治世は彼のザムザムたる姉妹イーリ・バッシが事実上の王国の支配者であった。 1856年ハルツームの実業家アル=ズバイル・ラーマがダルフールの南部で作戦を開始した。彼は重武装した兵士に守らせた交易拠点網を築き、直ぐに支配領域を広げた。バール・エル・ガザルとして知られる地域は長い間ダルフールにとってエジプトや北アフリカとの公益の為の資源である奴隷や象牙を得る地域だった。バール・エル・ガザルの住民はダルフールに貢納し、それらをダルフール人がアシュートでエジプト商人と取引していた。アル=ズバイルはそのものの流れをハルツームとナイル地域に振替えた。 ハッサンは1873年に死に、王位は一番若い息子のイブラヒムに渡った。イブラヒムは直ちにアル=ズバイルとの紛争に突入した。アル=ズバイルはその前にエジプトとの紛争を経験し、それによりエジプトと同盟してダルフールの支配を目指していた。戦争の結果王国は破壊された。1874年秋にイブラヒムの軍は破られ、独立を守ろうとした叔父のハッサブ・アッラも1875年にヘディーヴの部隊に捕まり、家族と共にカイロに送られた。
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