救国戦線とアミン政権の転覆
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「ヨウェリ・ムセベニ」の記事における「救国戦線とアミン政権の転覆」の解説
アミンに反対したランゴ族アチョリ族を主力とする亡命軍は、1972年9月にタンザニアからウガンダに侵入し、大損害を被って退けられた。反乱兵の地位はその年の内のタンザニアとウガンダの和平合意でより苦しくなり、ウガンダ攻撃のためにタンザニアの領土を使うことが否定された。ムセベニは1973年の救国戦線 (Front for National Salvation, FRONASA) 結成までの短期間北タンザニアのモシで大学講師をつとめた。同年8月元秘書でスチュワーデスのジャネット・カタハと結婚し後4人の子を儲けた。 1978年10月イディ・アミンはカゲラ州の領有を主張してタンザニアに侵攻した。1979年3月24日から26日にムセベニら救国戦線は反乱兵及び亡命者のモシへの集結を図り、イデオロギーの違いを超えたウガンダ民族解放戦線 (UNLF) が結成された。ムセベニは11人の執行委員の一人に選ばれ、議長にはユスフ・ルレが就いた。同時に28グループの代表からなる国民諮問会議も置かれた。UNLFは4月にアミン政権を打倒するためにタンザニア軍に加わった。ムセベニはUNLF政権の国防相に選ばれた。またムセベニはユスフ・ルレ政権の最年少大臣であった。ムセベニが救国戦線へと募集した部隊は新国軍に吸収された。彼らはムセベニへの忠誠を維持し後の第二次オボテ政権への反乱時にも主力となった。 1979年6月国民諮問会議は内紛によりユセフ・ルレに代えてゴッドフリー・ビナイサを新議長に選んだ。ビナイサも権力闘争で地位を追わることになる。11月にムセベニは国防相から地域協力相へ転任し、ビナイサは軍を掌握しようとした。オイテ・オジョク参謀長を解任しようとしたビナイサはパウロ・ムワンガ、ムセベニ、オケロらのクーデターで逆に軟禁された。ムセベニを副議長とする大統領委員会は12月に総選挙を実施すると発表した。 今日ではよく知られた人物であるムセベニがウガンダ愛国運動 (UPM) を結成したのはこの頃で、オボテのウガンダ人民会議 (UPC)、保守党 (CP)、民主党 (DP) などと戦った。UPCとDPが有力候補であると考えられた。公式結果はUPCの勝利を宣言し、ムセベニのUPMは126議席中の1議席のみを獲得した。投票の信頼性に関し多くの不規則が妥協された。選挙計画では、委員長のパウロ・ムワンガは各候補が別々の投票箱を持つべきとしたUPCの主張を支持した。これは他の政党から投票の操作が容易になるとして猛然と反対された。浮動票がUPCに流れた可能性もあった。一般に親UPCの北部ウガンダの有権者数は反UPCのブガンダと比較して少なかった。不正選挙の疑いがムワンガの公式発表までに広まり、敗北した政党は選挙違反の例を挙げて新政権の承認を拒否した。
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