第二次エル・アラメインの戦いで惨敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)
「エルヴィン・ロンメル」の記事における「第二次エル・アラメインの戦いで惨敗」の解説
10月25日にドイツ=イタリア装甲軍(アフリカ装甲軍がこの名前に改名されていた)司令部に到着。モントゴメリー率いる英第8軍は北と南に分かれて攻めよせてきた。英軍の北部進攻部隊はアメリカ製の高価な砲弾を無数に撃ちまくって「悪魔の花園」をあっさりと掃討していた。ロンメルはすぐに最北部に独装甲部隊を送りこんで防御を固めたが、英軍は最北部の独軍との戦闘を避け、そのやや南方の伊軍を攻撃した。そこからキドニー丘陵へ進撃し、独伊軍の防衛線を破った。 今こそ全面攻勢の時と見たモントゴメリーは「スーパーチャージ作戦」を発動し、北部での大攻勢を開始した。もはや成す術なしと判断したロンメルは、ヒトラーにエル・アラメイン戦線から大幅に撤退することの許可を求めた。だがそれに対するヒトラーの返答は死守命令であった。この死守命令にロンメルは絶望して憔悴。その間も独伊軍は大打撃を受け続けた。隷下のアフリカ軍団長ヴィルヘルム・フォン・トーマ装甲大将は死守命令に激怒して「総統命令を遵守するため」自ら最前線に赴き、突撃をかけて英軍の捕虜となった。南方総軍司令官アルベルト・ケッセルリンクの取りなしにより11月4日になってようやくヒトラーの撤退許可が下りた。だがすでに撤退の好機は逃しており、英軍から激しい追撃を受けた。撤退に際して独軍は9000人、伊軍は2万人の戦死・行方不明者をだすことになり、敗走に近い撤退となってしまった。
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