第二次エジプト遠征とは? わかりやすく解説

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第二次エジプト遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 01:17 UTC 版)

アモーリー1世 (エルサレム王)」の記事における「第二次エジプト遠征」の解説

この事件でアモーリーのエジプトへの野心知ったヌールッディーンまた、イスラム支配者となるべくエジプト得よう目論んだ。そこでヌールッディーン配下武将シールクーフ派遣しエジプトへの干渉行った1164年4月シールクーフエジプト進軍に際して敵の注意を引くためにヌールッディーンパレスティナ北部牽制作戦行っている間、シャーワル伴ったシールクーフ2000騎が敵に見つかるのを避けつつ、エジプト入った4月24日シールクーフビルバイス奪い5月1日にはカイロ城壁の下に陣を張ったシャーワル追い出した宰相ディルガームは混乱の中殺されシャーワル宰相復権した。 しかし、一旦復帰するシャーワルヌールッディーンとの約束遠征戦費全額支払いヌールッディーン宗主権認め貢納金を支払う)を破ってシールクーフ即刻退去求めた。そして、シールクーフを討つべくエルサレム特使送り、アモーリーに援軍要請した。これを受け、同年7月にアモーリーは再びエジプトへと遠征しシールクーフ篭るビルバイス包囲した包囲は数週間に及び、シャーワルからも攻め立てられシールクーフ状況絶望的になった。これを知るとヌールッディーンはアモーリーをエジプトから撤退させるためにアンティオキア公国領のハリームの城を攻めてこれを落とし王の不在中のエルサレム王国国事委ねられていたアンティオキアボエモン3世トリポリ伯捕虜とした。この報を受けるや背後脅かされたアモーリーは撤退余儀なくされた。何度かの折衝の後、アモーリーとシールクーフ同時にエジプトを去ることで妥協し、アモーリーは10月末にエジプト去った。アモーリーはこの遠征エジプトヌールッディーンの手落ちるのを防ぐことに成功した。しかし、一番の勝者は、シールクーフ使って権力の座返り咲き、アモーリーを使ってシールクーフ撤退させてヌールッディーン影響力排除したシャーワルだった。

※この「第二次エジプト遠征」の解説は、「アモーリー1世 (エルサレム王)」の解説の一部です。
「第二次エジプト遠征」を含む「アモーリー1世 (エルサレム王)」の記事については、「アモーリー1世 (エルサレム王)」の概要を参照ください。

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