第二次ウィーン裁定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 03:25 UTC 版)
詳細は「第二次ウィーン裁定(英語版)」を参照 1940年、すでに第二次世界大戦は始まっておりドイツはフランスを下し、バトル・オブ・ブリテンや独ソ戦の準備のために背後を固める必要があった。また、オーストリア併合からポーランド併合にかけての一連の領土拡張政策によって、もはやドイツは東欧において支配的な影響力を持つに至った。また、ハンガリー王国は南部スロバキア、カルパティア・ルテニアを獲得して国力を増大しつつあったが、一方ルーマニアはソビエト連邦のベッサラビア要求に屈してベッサラビアと北ブコビナを割譲しており、国力を減退させつつあった。 ルーマニアとハンガリーの交渉は8月16日にルーマニア・ハンガリー国境に近い街トゥルヌ・セヴェリンで始まった。ハンガリーはできるだけ多くトランシルヴァニアを獲得することを望んだが、ルーマニアはできるだけ小さい領域を割譲してすますことを望んだ。この後ルーマニアの政府はドイツとイタリアに仲裁を依頼した。 ウィーンで協議を行ったドイツのリッベントロップ外相とイタリアのチャーノ外相は8月30日にベルヴェデーレ宮殿で裁定の結果を発表した。同日条約が結ばれ、両国の国境が確定した。これによりトリアノン条約でルーマニアに割譲されたトランシルバニアのうち北部が、再びハンガリーに帰属されることになった。また、イタリアはこの間に南ドブロジャを要求するブルガリアの要請を受け、ルーマニアに割譲を迫った。このため9月7日にトランシルヴァニア南部の都市クラヨーヴァでクラヨーヴァ条約が結ばれ、南ドブロジャはブルガリア領に編入された。 ルーマニアに対する見返りとしては、軍事使節と銘打たれたドイツ軍がルーマニアに駐在することになり、同国の安全保障の一助となったが、ルーマニア国王カロル2世は多くの領土を明け渡したとして国民から大きな非難を浴び、9月6日に首相イオン・アントネスク将軍のクーデターにより退位を余儀なくされた。ルーマニア軍は北トランシルヴァニアから14日以内に撤退することが求められ、代わりにハンガリー軍が進駐したが、この際に住民との衝突が起き、200人以上の住民が虐殺されたと言われる。また、会議に参加を求められなかったソビエト連邦は、独ソ不可侵条約における秘密協定のルーマニアの項に違反するとドイツを激しく非難した。
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