バルバロッサ - 北アフリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/16 13:31 UTC 版)
「第1降下装甲師団」の記事における「バルバロッサ - 北アフリカ」の解説
1941年年初めにゲネラル・ゲーリング連隊は自動車化連隊に改編された。この期間に連隊はゲーリングが国家元帥(Reichsmarschall)に昇進した時にヘルマン・ゲーリング連隊(Regiment (mot) Hermann Göring)と改称された。この再編成後に連隊はソビエト連邦への侵攻に参加するために東部へ移動した。 ベニート・ムッソリーニがギリシャへ侵攻したことによりバルバロッサ作戦、ドイツ軍のバルカン半島とギリシャへの侵攻に遅滞が生じ、連隊はプロイェシュティ近郊の油井の高射砲防衛任務に就くためにルーマニアに駐屯した。 バルバロッサ作戦が進行中の1941年6月22日、ヘルマン・ゲーリング連隊は南方軍の一部である第11装甲師団へ配備され、Radziechow、キエフ、ブリャンスク近郊で戦い数多くの赤軍の戦車を8.8 cm 高射砲で撃破した[要出典]。1941年末に連隊は戦闘で被った相応の負傷兵を伴い休暇と再装備のためにドイツに帰還した。ヘルマン・ゲーリング狙撃大隊(Schützen-Bataillon Hermann Göring)は1942年5月まで前線に留まった。 1942年7月に連隊は旅団規格に昇格しヘルマン・ゲーリング旅団(Brigade Hermann Göring)と命名された。1942年10月今なお再編中の旅団を更に完全な師団規格まで拡充する決定がなされた。ヘルマン・ゲーリング師団は陸軍の装甲師団並みに編成されることになった。ゲーリングは陸軍の熟練戦車兵をヘルマン・ゲーリング師団に移籍させるように手配し、第5降下猟兵連隊を組み入れることにより機械化された歩兵部門を強化した。 師団が編成されている間に第二次エル・アラメイン会戦によりエルヴィン・ロンメル元帥のドイツアフリカ軍団はエジプト - リビア国境からチュニジアに向けて退却を余儀なくされていた。まだ完全に編成が完了していなかったがヘルマン・ゲーリング師団はヨーゼフ・シュミット少将指揮の下シュミット戦闘集団(Kampfgruppe Schmid)としてドイツアフリカ軍団を支援するために分割してチュニジアへ送られた。シュミット戦闘集団がアフリカ装甲軍の残存部隊と共に降伏したことでヘルマン・ゲーリング師団は全ての戦闘部隊と多くの指揮系統を失った。ゲーリングは直ぐに師団の再編成を命じた。
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