ザイヤーン朝時代(1236年-1550年)
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「アルジェリアの歴史」の記事における「ザイヤーン朝時代(1236年-1550年)」の解説
詳細は「ザイヤーン朝」を参照 1236年にはトレムセン総督のヤグムラーサン・イブン・ザイヤーンがムワッヒド朝から独立し、トレムセンにザイヤーン朝を開いた。ザイヤーン朝は当時アルジェにまで至る地域を支配していたチュニスのハフス朝と、フェスのマリーン朝に挟まれた勢力であり、度々東西から両勢力の侵入を受けた。1492年にイベリア半島で統一スペインがナスル朝グラナダ王国を滅ぼし、レコンキスタが終焉すると、北アフリカ一帯に亡命アンダルシア人が流入し、アルジェリアにもアンダルシアのムスリムやユダヤ人(セファルディム)が定着した。彼等はモール人と呼ばれ、沿岸部の都市に定着し、商工業を支えた。 ザイヤーン朝は現在のアルジェリアの西部を支配していたが、ハフス朝の支配下にあった東部のビジャーヤはベルベル人の都として商業で栄え、ムザブの谷にも亡命したイバード派の遺民が独自の都市文明を築いた。 レコンキスタ後には統一したスペインが地中海に勢力を伸ばし、キリスト教世界とイスラーム世界の争いが激化した。1509年にはオランがスペインに占領され、ザイヤーン朝はスペインの属国となった。一方アルジェを根拠にしたバルバリア海賊の首領バルバロッサは地中海を荒らし周り、そのためにスペインのアラゴン王フェルナンド2世はアルジェを占領した。バルバロッサは1529年にアルジェを再攻略した後、スペインからの保護を求めて1533年にオスマン帝国に臣従し、支配地を献上した。 アルジェはオスマン帝国のマグリブ支配の拠点となり、その後もバルバロッサはプレヴェザの海戦でキリスト教徒連合軍を破るなど、地中海を荒らしまわった。1550年にはオスマン帝国軍によってトレムセンが陥落し、ザイヤーン朝が滅亡した。オスマン帝国は勢力を拡大して1574年にはハフス朝を滅ぼし、東はエジプトから西はアルジェリアにまで至る北アフリカ一帯を征服した。 北アフリカの征服後、バルバリア海賊は猛威を奮い、1571年のレパントの海戦での敗北後も地中海一帯を荒らしまわった。1575年にはスペインの兵士ミゲル・デ・セルバンテスが海賊に捕らえられてアルジェで虜囚生活を送り、後に著された『ドン・キホーテ』にはアルジェでの生活をモチーフにした章が存在する。
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