レコンキスタ後
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1237年にはアラゴン王ハイメ1世(ジャウマ1世)がバレンシア地方を征服(レコンキスタ)してバレンシア王国を建設し、1248年12月4日にはカスティーリャ王アルフォンソ10世がアリカンテを征服し、ベナカンティル山の要塞を聖バルバラに因んでサンタ・バルバラ城に改称した。ハイメ1世とアルフォンソ10世はアルミスラ条約(英語版)を結んで領土を確定させ、アリカンテはアラゴン連合王国の支配下に入った。1469年にはカスティーリャ王国とアラゴン王国の同君連合が形成されてスペイン王国が成立し、アリカンテはコメ、ワイン、オリーブオイル、オレンジ、羊毛を地中海に向けて輸出する貿易基地となった。 1609年にはスペイン王フェリペ3世によってモリスコ追放が行われ、レコンキスタ後のバレンシア地方に残っていた何千人ものモリスコ(カトリックに改宗したイスラム教徒)が追放された。これによって熟練した職人や農業従事者が減少し、領主による封建社会は衰退していった。1701年から1714年に起こったスペイン継承戦争では、アリカンテの町がフランス・ブルボン家の軍隊に包囲されていた。スペイン継承戦争後には経済がさらに悪化し、アリカンテは18世紀から19世紀にかけて長く続く低迷期に入った。この時代には靴製造業、オレンジやアーモンドなどの農業、漁業などの産業があった。
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レコンキスタ後
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他宗教にも寛大であったナスル朝のグラナダには、当時キリスト教世界で弾圧されていたユダヤ人も多く存在していた。しかし、レコンキスタ完了後は、キリスト教徒によるユダヤ人の虐殺が行われ(スペイン異端審問)、多くのユダヤ人がイベリア半島から去った。そうしたユダヤ人は、オスマン帝国などで保護され、経済発展を支える一勢力になる。
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