レコンキスタ以降
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1165年9月、エヴォラは「恐れ知らず」のジェラルドの攻撃によってムーア人の手から奪われ、翌年にアフォンソ1世の統治下に入った。その後、15世紀にかけてポルトガルは経済的繁栄を築くが、ブルゴーニュ王朝・アヴィス王朝の時代を通して国王はエヴォラに滞在することが多く、邸宅や記念碑、宗教的建築物が建設された。王族の結婚式が行われ、この地で重要な決定もしばしば行われた。 特に、アヴィス王朝時代、とりわけマヌエル1世やジョアン3世が統治した15世紀後半から16世紀の前半にかけて、エヴォラはルネサンスの中心となり、フランス人彫刻家のニコラ・シャントレーヌ(英語版)やポルトガルの戯曲の父であるジル・ヴィセンテといった芸術家が集まった。 エヴォラは1540年に大司教座に昇格した。1559年にはイエズス会によってエヴォラ大学(英語版)が創設された。イエズス会の影響の下、エヴォラは対抗宗教改革の中心となり、スペインのクエンカで生まれたルイス・デ・モリナなどがここで宗教教育を受けた。 1759年、ポンバル侯爵がイエズス会をポルトガルから追放し大学が閉鎖されるとエヴォラは徐々に衰退していった。(なお、エヴォラ大学は1973年に再建された。) 多くの芸術家によってたくさんの建物がエヴォラの地に建設された。現存する建築物の様式は多様性に富んでおり、ロマネスク建築・ゴシック建築・マヌエル建築・ルネサンス建築・バロック建築と様々である。 現在、歴史地区の範囲は1.05平方kmであり、約4000の建物がある。
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レコンキスタ以降
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1242年、ポルトガル王国の手にタヴィラが陥落した。その後、タヴィラには、多くのキリスト教徒が移住することとなった。
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