レコンキスタの完了
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「フェルナンド3世 (カスティーリャ王)」の記事における「レコンキスタの完了」の解説
イベリア半島南東でもレコンキスタが継続、王太子とサンティアゴ騎士団長ペラヨ・ペレス・コレア(英語版)はムルシアへ進軍し、1243年に領主アブー・バクルをカスティーリャへの臣従やカスティーリャ軍のムルシア要塞駐屯、パリアの支払いと引き換えにしたイスラム教住民や法の尊重を条件に降伏させた。この地域にはバレンシアから南下して来たアラゴン王ハイメ1世の軍も進出、ハティバで接触した両軍に不穏な気配が生じたが、翌1244年3月26日にアルミスラ条約(英語版)を結び両国の獲得領土とその境界線を取り決めたことで紛争は避けられた。なお、ハイメ1世は1253年までにレコンキスタを完了させている。 一方、1244年になるとムハンマド1世が反旗を翻した。フェルナンド3世はすぐさまムハンマド1世の領土を侵略して多くの都市を奪い取り、1246年1月にハエン包囲戦(英語版)を開始した。形勢不利を悟ったムハンマド1世はフェルナンド3世に臣従を誓い、ハエン引き渡し、毎年15万マラベディのパリア支払いに同意、引き換えにフェルナンド3世はグラナダ王国の領土保全を約束した。ハエン獲得とムハンマド1世の臣従で残る標的はセビリアとなった。 同年にセビリアで政変が起こり、市民が反乱を起こし親キリスト教派の指導者ウマル・イブン・ジャッドを殺害、成立した市会はキリスト教徒への抵抗を決めたが、セビリアからチュニジア人を追放していたためイスラム教国家の怒りを買い孤立、セビリアは単独でキリスト教国家に立ち向かわねばならなくなった。政変を聞いたフェルナンド3世は直ちにカスティーリャ軍を率いて出兵、市壁と堀で守りが堅固で水運も発達していたセビリアと、その周辺に張り巡らされた要塞都市を落とす戦略に取り掛かった。 モリナ公とカラトラバ騎士団長フェルナンド・オルドニェス・サンティアゴ騎士団長ペラヨや、援軍を連れたムハンマド1世のイスラム教軍も加えたカスティーリャ軍を率いたフェルナンド3世は9月からセビリア北東の都市カルモナ(英語版)を攻撃して戦闘を開始した。セビリア周辺都市の攻略は1246年から翌1247年まで1年かけて行われ、武力と交渉を用いた硬軟折り合わせた戦術で対応、アルカラ・デ・グアダイラ、カルモナ、コンスタンティナ(英語版)、レイナ(英語版)、ロラ・デル・リオ(英語版)、ギリェナ(英語版)、アルカラ・デル・リオ(英語版)などを次々と降伏させた(ただし、北東のカンティリャナ(英語版)は降伏を拒否したため住民は虐殺か奴隷の惨状に見舞われた)。そうして北と東からセビリアを包囲、ブルゴスの商人ラモン・デ・ボニファス(英語版)が回送した艦隊で水路も封鎖、1247年7月頃からセビリア包囲戦(英語版)が始まった。 包囲中はキリスト教軍とイスラム教軍の小競り合いが頻発、水上ではボニファスの艦隊とイスラム教の艦隊が衝突した。戦いは次第にイスラム教軍が不利になり、年末までにセビリア艦隊は弱体化しキリスト教軍は封鎖を強化、1248年に入ると王太子とディエゴ・ロペス3世・デ・アロ(英語版)の援軍が到着、5月にはボニファスがセビリアとトリアーナ(英語版)を結ぶ浮橋へ大船をぶつけて破壊、キリスト教軍は兵糧攻めで包囲を続行した。これら一連の出来事でセビリア市民は援軍の当てを無くし、飢餓に苦しみ死者が続出、戦意を喪失して降伏、交渉でイスラム教徒住民の退去、セビリア市域2分の1をキリスト教徒へ引き渡す、周辺地域を含むセビリア全体を1ヶ月以内に引き渡すことで合意した。11月23日にセビリアは降伏し住民は財産を売却してグラナダやアフリカへ退去、代わってキリスト教徒がセビリアへ入り、フェルナンド3世は12月22日に入城した。こうしてレコンキスタは事実上の終結を迎えた(ムハンマド1世はフェルナンド3世に臣従していたため、イベリア半島で敵対するイスラム教勢力はほとんど無くなった)。 セビリアの降伏後はコルドバの時同様に戦後処理に奔走、王族・貴族・聖職者・騎士団などに所領分配・キリスト教徒の植民・フエロ授与によるセビリアの自治都市指定などに取り組む一方、カディス、メディナ=シドニアなどの町々を攻略していった。そして、レコンキスタの延長として北アフリカに侵攻しようと企てたが、1252年に遠征途上のセビリアで病死した。 フェルナンド3世のレコンキスタは大成功であった。しかしその急速な勢力拡大に対して、領土を戦闘に参加した貴族へ配分して強大化を招いたため、支配体制の基盤は脆弱になった上、軍事における多大な戦費における経済破綻、イスラム勢力撤退による産業衰退などの悪影響も発生し、皮肉にもカスティーリャ王国は領土の拡大の代償に国力を減退させてしまうこととなった。後を継いだアルフォンソ10世はこうしたカスティーリャを受け継ぎ、いかにして王国を防衛・維持しながら王国機構を改変していくかという課題に挑むことになる。
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レコンキスタの完了
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「ハイメ1世 (アラゴン王)」の記事における「レコンキスタの完了」の解説
バレンシア占領後は土地分配で聖職者および貴族たちと揉めたり、包囲に参加出来なかった一部の貴族がビリェーナ攻撃に失敗して退却するといった出来事があったが、バレンシア王国中部を平定したハイメ1世は大貴族たちの支持を獲得した。しかし征服は未完で、バレンシアに守備隊を残して一旦切り上げたが、1239年に再び征服活動を行うようになる。ただし、同年6月からモンペリエ訪問と政治工作で南仏へ赴いているため、バレンシア征服再開は11月になってからである。 11月にモンペリエからバレンシアに戻ると南進、1240年2月に交渉でバイレーン城(スペイン語版)の主と降伏を取り付け、8月に降伏を受諾した。続いてビリェーナも降伏、それからカタルーニャへ帰国し翌1241年3月に再びモンペリエを訪れバレンシア征服は中断したが、南仏政策が失敗すると1242年4月にバレンシアへ戻り征服活動を再開した。時期は不明だがシャティバ(ハティバ)包囲も行われ、包囲中に城主の使者との交渉で城主はシャティバの代わりにカステリョン・デ・ラ・リベラ(英語版)を渡し、ハイメ1世に臣従する条約を交わした。承諾したハイメ1世は包囲前にシャティバで捕虜になっていた家臣たちを解放してもらい、カステリョン・デ・ラ・リベラも受け取りアラゴンへ帰国した。しかし、シャティバとは後に係争が生じることになる。 1242年12月30日にアルジーラの降伏を承諾した後、シャティバ城主の配下のモーロ人部隊がアラゴン貴族ロドリーゴ・リサナの部下たちを襲い、戦利品を奪う事件が発生、先に取り決めた条約を破ったことを城主に詰問、条約違反として要求したシャティバの明け渡しを拒否されたため1244年1月にシャティバを包囲した。ここにはムルシアから西進したカスティーリャ王フェルナンド3世の王太子アルフォンソ(後のアルフォンソ10世)も軍を率いて接近、両軍はシャティバで接触し、王太子の会見の求めに応じたハイメ1世はアルミスラで王太子と会見、征服地の取り分と国境線を決める会談を行った。1179年に両国はカソーラ条約(英語版)で征服地の取り分を決めていたが、王太子もハイメ1世も条約を守らず規定外の領域に侵入したため、一時は交渉決裂する寸前までいったが、王妃ビオランテと王太子の側近のビスカヤ領主ディエゴ・ロペス3世・デ・アロ(英語版)とサンティアゴ騎士団長ペラヨ・ペレス・コレア(英語版)が取り纏めた。こうして1244年3月26日に締結したアルミスラ条約(英語版)で、カスティーリャとの国境を画定させた。なお、5年後の1249年12月1日にハイメ1世は王太子に娘ビオランテを嫁がせている。 アルミスラ条約を結んだ後はシャティバ包囲に戻り、5月に城主を降伏させた。さらに9月から1245年2月にかけてビアル(現在のアリカンテ)も包囲した末に降伏させ、バレンシア王国征服およびレコンキスタは完了した。しかしハイメ1世がバレンシア王国を離れた後にアル・アスラック(スペイン語版)という男が反乱を起こし、ムスリムたちも同調して反乱が拡大したため、それらの鎮圧に手間取り、バレンシア王国の完全征服は1258年までかかった。
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