バレンシア占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 16:15 UTC 版)
「ハイメ1世 (アラゴン王)」の記事における「バレンシア占領」の解説
マヨルカ島征服の合間にアルカニスでバレンシア王国征服(スペイン語版)が聖ヨハネ騎士団管区長ユーグ・ド・フォルカルキエ(スペイン語版)とハイメ1世および側近のブラスコ・デ・アラゴン(スペイン語版)との間で話し合われ、1232年からバレンシア王国の征服を進めた。この会談は3度目のマヨルカ島遠征が行われる前の1232年1月にあったと推定され、タイファの1つだったバレンシア王国が内部分裂を起こし、ムワッヒド朝の総督だったアブー・ザイド(英語版)、ザイヤーン・イブン・マルダニーシュ(英語版)、イブン・フードの三者鼎立状態になっていた。このうちザイドがマルダニーシュにより首都バレンシアから追放され、アラゴンへ助けを求めたことから、バレンシア征服が始まった。 当初ハイメ1世はマヨルカ島征服に向いていたため、バレンシア征服は貴族の軍事行動に委ねられていた。9月にテルエルと国境の歩兵軍がアーレス(英語版)を落としたとの報告を受け取ると現場に急行したが、途中でブラスコの軍がモレーリャ(英語版)を落としたと知るやそちらへ転進、到着してブラスコにモレーリャを譲らせアーレスも手に入れた。 翌1233年からは国王が指揮を執り、アラゴン・カタルーニャ軍とテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団・カラトラバ騎士団・サンティアゴ騎士団も加えた軍を率いてバレンシア王国北部を征服、5月から7月までボリアナを包囲・降伏させたのを手始めに、ペニスコラの降伏を受諾、ボリアナ周辺の諸城も次々と陥落させた。1234年から1235年は史料が少なく特定出来ないが、首都バレンシア周辺の町も落として回った時期は1235年夏とされ、1236年は一旦アラゴンへ戻り市民軍を抱える各自治都市を巡行したり、モンソンでコルテスを開きカタルーニャ人の参戦を促すなどバレンシア征服の準備を進め、1237年にバレンシアから北にある城プッチ(英語版)を落とし、ここを足掛かりにしてバレンシアを包囲する作戦に取り組んだ。 この任務を母方の叔父のベルナット・ギレム・デ・モンペリエ(英語版)に託し、敵に破壊されたプッチを再建すると、ベルナットをこの城に置いて守備を任せ、自身はタラゴナやテルエルで兵糧を送り、時折マルダニーシュの襲撃が報告されるとプッチ救援に向かい、無事を確認するとボリアナに戻るという行動を繰り返した。ベルナットも王の期待に応え、8月のプッチの戦い(英語版)で襲撃したマルダニーシュ軍に勝利を飾った。 そうして前線と後方を行き来して過ごしているうち、1238年1月にベルナット戦死の報告を受け取ると、撤退を進める貴族たちの反対を押し切りプッチへ急行、不安に駆られ逃亡を図る騎士たちを演説で叱咤して思い止まらせ、混乱を収めると包囲作戦継続のためプッチに留まった。それから王妃と叔父フェルナンドを呼び寄せ、2人から撤退を勧められても不退転の決意を表明して拒否、王妃をボリアナに留めた(叔父は帰国)。またマルダニーシュが派遣した使者から、バレンシア北部を割譲する和睦条件を提示されても拒否、あくまでも武力行使でバレンシアを手に入れることを選んだ。 プッチ滞在中、アルメナラ(英語版)から降伏の使者が訪問、現地へ行き降伏を受諾した。するとラ・ヴァイ・ドゥイショー、ヌレス(英語版)などの町々も次々と降伏、アラゴン軍が首都バレンシアに近付いたため、4月にプッチで開いた軍議でバレンシア包囲を決断した。同月から始まったバレンシア包囲戦(スペイン語版)はアラゴンやカタルーニャからの援軍で包囲網は強化、バレンシアのマルダニーシュ軍は戦意喪失し、包囲網を攻撃しなくなった。マルダニーシュの援軍としてチュニスからハフス朝の艦隊が襲来、ハイメ1世が包囲中に町から放たれた敵の矢が額に当たり重傷を負うなど危機的状況も見られたが、ハフス朝艦隊は攻撃せず撤退、ハイメ1世は怪我から復帰して危機は去り、町の塔を放火して落とし戦況を有利に進めた。これにより抵抗を諦めたマルダニーシュから降伏の交渉を打診され、応じたハイメ1世は提案されたバレンシア住民の退去を保障して交渉を成立させ、9月28日にバレンシアを降伏させた。このバレンシア征服とバレアレス諸島征服でハイメ1世は征服王と称えられた。
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