バレンシア市長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 14:43 UTC 版)
1987年から1990年には国民同盟(AP)バレンシア州支部長を務めた。1991年、スペイン社会労働党(PSOE)のクレメンティーナ・ロデナス(英語版)の後任としてバレンシア市長に就任した。1995年にはア・コルーニャ市長のフランシスコ・バスケス・バスケス(英語版)からスペイン自治体・県連盟(英語版)(FEMP)会長の座を引き継ぎ、2003年にバスケス・バスケスに引き継ぐまで8年間会長を務めた。 1995年-1999年(2選)、1999年-2003年(3選)、2003年-2007年(4選)、2007年-2011年(5選)、2011年-2015年(6選)と、6期24年にわたってバレンシア市長を務めた。バレンシア市長の座にあった2008年スペイン議会総選挙時には、国会議員に転身するという提案を断っている。 バレンシア育ちであるものの、現地語であるバレンシア語(カタルーニャ語の方言)ではなくスペイン語を使っていた。2015年に同市の火祭りでの開会宣言を行った際に、文法・語彙の両方において間違いだらけのバレンシア語を喋り、批判を浴びた。その中でも(春の)「陽気」を意味すると思われるエル・カロレー(El Caloret)は流行語になり(正しくはラ・カロレータ、La Caloreta)、カタルーニャ語圏のみならずスペイン全国で知られることになった。
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