チュニジア時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 21:43 UTC 版)
「バルバロス・ハイレッディン」の記事における「チュニジア時代」の解説
1503年ウルージはジェルバ島を新たな根拠地とし、フズールが合流した。1504年、兄弟は戦利品の5分の1を差し出すことを条件に、チュニジアのハフス朝のスルタンからラ・グレット港の使用許可を認められた。ジェルバ島とラ・グレットを拠点に西地中海で私掠船活動を展開し、教皇船団、イタリア半島各地を襲撃・拿捕した。1509年長男イスハークもミティリーニを離れ、ラ・グレットで兄弟に合流した。1504年から1510年の間、スペインのムスリムを北アフリカに運ぶ活動でウルージが名声を博し、Baba Aruj (Father Aruj)と呼ばれるようになり、このBaba Arujが訛ってバルバロッサと呼ばれるようになったと言われる。ウルージの死後、ハイレッディンは兄のあだ名を引き継ぐことになる。 1511年8月、兄弟はシチリア島東南のPassero岬に上陸し、スペイン人の攻撃をアルジェリア北岸のベジャイア、オラン、アルジェ で撃退した。1511年8月アルジェでは南イタリアのカラブリア地域に上陸した。翌1512年8月には追放されていた前ベジャイアの支配者がスペイン人放逐の為に兄弟を招き、その時の戦闘でウルージは左腕を失った。この一件で彼は、Gümüş Kol (トルコ語で“銀の腕”)という渾名がついた。兄弟達はイベリア半島沿岸を襲撃し、Tabarca島を拠点としていたジェノヴァ人一家の船を拿捕、メノルカ島 に上陸し海辺の城を奪取し、ジェノヴァ近郊でジェノヴァ籍のガレー船を拿捕した。彼らは弾薬とガレー船を次々と蓄えていった。1514年にはフランスに向かう英国船を拿捕し、バレンシアに上陸、その後ジブラルタル近くのマラガでスペイン人ガレー船を拿捕した。1513年と14年にはアルジェの東にあるCherchellを新しい拠点として、1000人のトルコ兵と12のガレー船でベジャイアのスペイン人の要塞を壊滅させ、チュニジアのマフディーヤ、サルディニャ、シチリア島、バレアレス諸島を襲撃した。1515年にウルージはオスマン皇帝セリム1世に数名美女を贈り、セリムは返礼として二振りのダイアモンドが埋め込まれた剣と二隻のガレー船を送った。1516年にはクルトゥオウル・レイース(英語版)(後のオスマン海軍提督)が加わってエルバ島を攻め、12隻を拿捕、28隻に損害を与えた。
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