チュニジアのイスラーム化とは? わかりやすく解説

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チュニジアのイスラーム化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 22:24 UTC 版)

チュニジアの歴史」の記事における「チュニジアのイスラーム化」の解説

詳細は「イフリーキヤ」を参照 征服後、この地域中心カルタゴからカイラワーンマフディーヤ移動したチュニジアアラビア語イフリーキヤ呼ばれるようになり、イスラーム教徒アラブ人土着のベルベル人支配したことで、この地域イスラーム化アラブ化が進められた。チュニジア征服後アラブ人西進しスペイン達して西ゴート王国征服した737年にはザイトゥーナ大学創設された。しかし、不正な統治続いたため、征服直後からベルベル人マシュリクから流入したハワーリジュ派連合してウマイヤ朝支配反乱を起こすようになったその後アッバース朝支配下入ったが、アッバース朝カリフ指導力低下ともなって800年にイブラーヒーム・ブン・アグラブがアグラブ朝建国した。アグラブ朝名目上アッバース朝属国だったが、実際に独立していた。アグラブ朝シチリア島遠征し831年パレルモ攻略したイタリア諸侯反撃した効果上がらず10世紀までにシチリア島全土アグラブ朝支配下置かれた。この時代にはイスラーム化アラブ化が進み、ザイトゥーナ・モスクやカイラワーンモスク造営が行われた。 10世紀に入るとマシュリクからイスマーイール派流入し909年アグラブ朝滅ぼされファーティマ朝成立したファーティマ朝建国当初よりカリフ称してメソポタミアアッバース朝との対立姿勢強く打ち出しムイッズ治世においてイフシード朝倒してエジプトにまで勢力伸張させた。エジプト征服後、ファーティマ朝マフディーヤからカイロ移転したため、イフリーキヤ統治はズィール家に任され973年にブルッギーン・イブン=ズィーリーによってズィール朝成立した第二代のマンスールファーティマ朝からの独立宣言しその後ズィール朝アッバース朝宗主権服したが、11世紀初頭内紛によって国家分裂し1050年アラブ系スライム族とヒラール族の侵入によりチュニジア大混乱陥ったズィール朝はこの混乱収めることができずにカイラワーン放棄してビジャーヤ逃れチュニジア都市国家乱立する無政府状態陥ったスライム族とヒラール族の侵入によって、ベルベル人多かった農村部でもチュニジアアラブ化が進んだチュニジア衰退する中、イスラーム勢力圏だったシチリア島キリスト教徒ノルマン人によって奪還され、ズィール朝1140年シチリア王国属国となり、1148年滅ぼされた。ズィール朝滅亡後イフリーキヤモロッコから勢力伸ばしたムワッヒド朝征服下に置かれた。

※この「チュニジアのイスラーム化」の解説は、「チュニジアの歴史」の解説の一部です。
「チュニジアのイスラーム化」を含む「チュニジアの歴史」の記事については、「チュニジアの歴史」の概要を参照ください。

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