プレヴェザ海戦への道
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「バルバロス・ハイレッディン」の記事における「プレヴェザ海戦への道」の解説
1531年、カール5世に任命されたアンドレア・ドーリアがスペインとイタリアのガレー船40隻を率いてジジェルとペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラを取り戻しに来た。バルバロッサは南イタリアのカラブリアとアプリアに出向いていたが、急遽アルジェに戻り、メッシーナ海峡でマルタ騎士団の船を沈め、翌年にはスペイン海岸を略奪し返した。1532年、スレイマン1世がオーストリアに遠征している間に、アンドレア・ドーリアは、ペロポネソス半島のレパント、Koroni、パトラ、モレアを占領した。スレイマンはYahya Pashazade Mehmed Beyの軍を派遣して再占領したが、この事件はスレイマンに、海防の重要性を認識させた。スレイマンはコンスタンティノープルにバルバロッサを呼び寄せることにし、バルバロッサは8月に出発した。彼は、サルディーニャ、コルシカ島のボニファシオ、モンテクリスト島、エルバ島、ランペドゥーザ島を略奪し、メッシーナ近郊では18のガレー船を拿捕した。捕虜から、アンドレア・ドーリアがプレヴェザに向かっていることを知ったバルバロッサは、カラブリア海岸を略奪しつつ、プレヴェザに向かった。短い戦闘の後ドーリア軍は退却し、バルバロッサが捕獲したのは7隻に過ぎなかった。彼は44隻を率いてプレヴェザに到着したが、25隻をアルジェに戻し、19隻を率いてコンスタンティノープルに向かった。トプカプ宮殿でスレイマン1世に面会し、オスマン海軍のKapudan-i Derya (カプタン・パシャ/大提督)、北アフリカのベイレルベイ(主知事)、ロドス諸島とエウボイア、キオス島のサンジャク(県知事)にも任命された。 1533年バルバロッサはフランス王への大使を派遣し、フランス王は返礼使としてAntonio Rinconを送ってきた。彼は最初にバルバロッサを訪問し、次いでスレイマンを訪問しに小アジアに向かった。この後もフランス宮廷とバルバロッサの間で使節が行き来した(Jean de La Forêtなど)。 1534年バルバロッサは80隻のガレー船を率いて出撃し、レパント、パトラ、モレアをスペイン人から取り戻した。カラブリア沿岸を略奪し、サン・ルーチドの城を占領、チェトラーロの港を破壊した。7月にはカプリ島を襲撃し、ナポリを砲撃した。ラツィオ地方(ローマ周辺地域)にも現れ、テッラチーナ、フォンディスペルロンガなど海岸沿いの町に上陸し、ティブル川河口のオスティアに上陸した時には、ローマで警鐘が鳴らされた。カール5世は刺客を送ったが失敗した。1534年にはチュニスも占領した(チュニス占領 (1534年)(英語版))。 1535年にチュニスのハフス朝君主ムーライ・ハサンは、カール5世の支援を仰ぎ、300隻のガレー船と2万4千の兵士で構成されるスペイン-イタリア連合軍とともにチュニスとアンナバ、マーディアを奪回した(チュニス占領 (1535年)(英語版))。大軍を前に、バルバロッサは敵軍が来る前に海に脱出、カプリに逃れ、要塞を修築。そこからアルジェに向かった。途中マヨルカ島やスペイン沿岸の町やマオーを襲撃し(マオー略奪(カタルーニャ語版、英語版))、スペインやジェノバの船を拿捕し、奴隷にされていたムスリムを解放、トレムソンで別働隊のスペイン軍を打ち破った。 1536年バルバロッサはコンスタンティノープルに呼ばれ、ナポリ攻撃用に200隻の戦艦を与えられた。1537年にはオトラント(イタリア半島のかかとの先の町)、ウジェント、カストロ (レッチェ県)に上陸し占領した。1537年リュトフィ・パシャ(英語版)とバルバロッサは大艦隊を率いてヴェネツィア共和国に所属するイオニア諸島とエーゲ諸島を占領した。同年バルバロッサはコルフ島を襲撃し、諸島の農作物を焼き払い、周辺住民を奴隷として売り払った。しかし、コルフ島の古い城は、4000人のヴェネツィア兵士と700丁の銃で防ぎきった。いくつかの砦の襲撃に失敗した後、バルバロッサはカラブリアを再襲撃し、この一連の事件は、ヴェネツィアのに、教皇パウルス3世への“対オスマン神聖同盟”締結への直接の原因となった。
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