英軍撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:23 UTC 版)
ソマリランド放棄が決定されると、イギリス紅海艦隊はただちにバルベラで輸送準備を始め、ソマリランドのイギリス入植者に避難勧告を発令した。16日から撤退作業が開始され、次々と民間人や役人が輸送船に積み込まれて他の植民地へ脱出した。17日から英海軍の軽巡洋艦「ケレース」がバルベラ近海で警戒任務にあたった。 アルガン砂漠を越えてバルベラ近郊に迫っていたシモーネ司令官は用心深く、英軍の総後退から伏兵攻撃を危惧して慎重な偵察任務を行わせていた。シモーネ司令官がバルベラ包囲を開始させると、スコットランド高地連隊は激しい抵抗を見せ、最後には銃剣突撃まで敢行したと言われている。英軍は敗走してきていた兵士達を矢継ぎ早に輸送艦へ乗せて脱出させ、イタリア王国軍がバルベラ市内に突入した8月18日までぎりぎりの輸送任務が続けられた。これによって多くの退却兵と民間人が救われ、8月19日に最後の艦船であった軽巡洋艦「ホバート」が出航して退却任務は終了した。含む英軍・植民者7000名がアデンへと脱出したと記録されているが、一方で現地召集のアスカリはほとんどが現地解散という戦後処理が行われた。 民間人の脱出任務について英軍はほとんど監督しなかったが、住民虐殺や略奪などの被害は発生していない。これはアオスタ公アメデーオ・ディ・サヴォイアAOI軍総司令官が、グリエルモ・ナシ参謀長に英国民やその兵士に対する不当な弾圧などを行わないように厳命を下していたためであった。親英派であったアオスタ公はイギリスとの早期和平による枢軸同盟からの離脱を望み、バチカンを通して何度かイギリス政府と交渉していたことがわかっている。こうした経緯から後に東アフリカ戦線が決着した際、捕囚となったアメデーオ公は英軍とイギリス政府から最大級の敬意を持って扱われ、捕虜としては特例的といえる厚遇を受けている。 19日、バルベラの完全占領をもってソマリランド植民地政府はイタリア王国に降伏を宣言、英領ソマリランドは伊領東アフリカに統合された。
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