東インド社会民主主義同盟の結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/11/11 19:18 UTC 版)
「東インド共産党」の記事における「東インド社会民主主義同盟の結成」の解説
オランダ領東インドにおける共産主義運動の歴史を語るには、宗主国オランダから植民地東インドへ渡ったオランダ人社会主義者と、東インド在住の欧亜混血児(ユーラシアン)たちの存在を抜きにすることは出来ない。 なかでも、1913年3月、東インドに渡ったオランダ人ヘンドリクス・スネーフリート(Hendricus J.F.M.Sneevliet、1883年 - 1942年)は、盟友アドルフ・バールス(Adolf Baars)とともに、東インドに社会主義思想に普及させ、のちのインドネシア共産党の指導者となるスマウン、アリミンらの「原住民 Inlanders」活動家を育てた、という点で傑出した役割を果たした。 1914年5月、中部ジャワで新興工業都市へと変貌しつつあったスマランで、このスネーフリートやバールスらオランダ人と欧亜混血児によって、東インド社会民主主義同盟(Indische Sociaal-Democratische Vereniging、略称ISDV)が設立された。設立当初の参加者は約60名で、これには「原住民」の参加はなかった。翌1915年には『自由の声 Het Vrije Woord』(オランダ語機関紙)を発行して、社会主義思想の宣言に努めた。 スネーフリートは党勢を拡大するために、「原住民」子弟のスマウンやダルソノらを入党させた。そして、ムスリムしか参加を認めていなかったサレカット・イスラームに彼らを参加させて、当時の東インドで最大の組織を持っていたサレカット・イスラーム内部で党員をリクルートさせた。ISDVはサレカット・イスラームの一部を侵食しながら、自らの党勢を拡大させていった。 1917年のロシア革命によって、ISDVはにわかに活気付いたが、革命の余波が植民地に及ぶことを警戒したオランダ領東インド政府は社会主義運動の弾圧に転じた。1918年末にスネーフリートは東インドを追放され、バールスも自主的に東インドを離れた。
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