東インド艦隊、1851-1855年
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「サスケハナ (蒸気フリゲート)」の記事における「東インド艦隊、1851-1855年」の解説
初代艦長であるジョン・オーリック大佐の指揮の下、1851年1月からの慣熟訓練の終了後、6月8日にサスケハナは東インド艦隊の旗艦となるべく極東に向かって出発した。オーリックには日本を訪問し、外交関係を結ぶ任務も与えられていた。しかしながら、オーリックはサスケハナの艦長インマン海軍大佐と問題を起したため、翌年広東に到着した時点で更迭された。代わりにマシュー・ペリー代将がミシシッピで極東に向かい、5月4日、上海で合流し、サスケハナを旗艦とした。5月17日にサスケハナはその僚艦3隻と共に上海を出航、5月26日に琉球(沖縄)に到着、6月14日から6月18日にかけて小笠原諸島父島周辺で測量等を行った後、再び琉球に戻り、7月2日に出航、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀に入港した。幕府に対しフィルモア大統領の親書を手渡した後、米国艦隊は7月17日に日本を離れ琉球に向かった。1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、サスケハナ、ミシシッピ、ポーハタンの3隻の蒸気船を含む7隻の艦隊は条約締結を求め日本を再訪し、3月31日(嘉永7年3月3日)に神奈川で日米和親条約が調印された。艦隊は6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に通商条約を締結させた。サスケハナはその後中国水域で活動後、インド洋、喜望峰を経て1855年3月10日にフィラデルフィアに戻り、3月15日に任務を解かれた。
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