東インド植民地計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:02 UTC 版)
「ブランデンブルク=プロイセン」の記事における「東インド植民地計画」の解説
選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムは青年期をポンメルンの宮廷、港口都市のヴォルガスト(1631年 – 1633年)とシュテッティン(1633年 – 1635年)で過ごした後、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)のライデン大学で学んだ(1635年 – 1638年)。1640年にブランデンブルク=プロイセンを継承した後、オランダの技師をブランデンブルクに招聘し、ブランデンブルクの技師にオランダで学ばせ、1646年にはオラニエ=ナッサウ家のルイーゼ・ヘンリエッテ・フォン・オラニエンと結婚した。このような背景もあり、三十年戦争が終結すると、フリードリヒ・ヴィルヘルムは復興への施策として(オランダで盛んに行われている)海外貿易への進出を試み、ブランデンブルク=プロイセンの東インド会社を創設しようとした。フリードリヒ・ヴィルヘルムは計画の一環としてオランダの提督だったアルノルト・ヘイセルス・ファン・リール(ドイツ語版)を顧問に起用し、神聖ローマ帝国や帝国諸侯に参加を呼びかけたが、皇帝フェルディナント3世は他国の利益を奪うことが危険であると考えて拒否した。1651年には1万2千ポンドでデンマーク=ノルウェーからインドのダンスボー砦(英語版)とトランケバー(英語版)を購入し、ハンザ同盟の都市に投資を呼びかけたが、結局資金が集まらずデンマークとの購入条約は1653年に無効となった。
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