包囲下の第6軍とは? わかりやすく解説

包囲下の第6軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/02 22:59 UTC 版)

アルトゥール・シュミット」の記事における「包囲下の第6軍」の解説

第6軍情報将校フリードリヒ・フランツ・ニーマイヤー (Friedrich Franz Niemeyer) 中佐何度も厳し戦況推移伝えていたものの、シュミット大戦初期快進撃縛られており、スターリングラードにおける赤軍規模能力対す過小評価断固として改めようとしなかった。ただしパウルスとは異なり自己弁護図ろうとはしなかったという。 1942年6月30日ヒトラー総統命令で他の枢軸国軍連絡取りあうことを禁じていたが、シュミットゲルハルト・シュテック中尉ベルリンオリンピック金メダリスト)をスターリングラード北西ルーマニア軍伝令として派遣し連絡試みた。しかし、ルーマニア軍はしばしソ連軍集結に関する誤報発信していたため、11月19日午前5時のウラヌス作戦発動間近」の通報当初誤報として扱われた。就寝中だったシュミットには通報20分後まで報告なされず、彼は目が覚めるなり激怒したという。 パウルスシュミット第6軍は、11月21日包囲下に置かれた。文書及び物資焼却処分した上でゴルビンスク (Golubinsky) の司令部放棄し、ニジネチルスカヤ (Nizhne-Chirskaya) に移動したヒトラー第6軍に対して包囲一時的なものである。引き続き死守せよ」という旨の命令を下す11月22日、ニジネチルスカヤにてシュミットは第8航空軍団(英語版司令官マルティン・フィービッヒ(ドイツ語版大将に、第6軍空輸による補給必要だ伝えたが、フィービッヒ大将は「今やドイツ空軍十分な航空機有していない」と答えたその日午後シュミットパウルスヘルマン・ホト大将とヴォルフガング・ピッケルト(ドイツ語版少将によって会議開かれたシュミットは、「我々が逃れるには、ドイツ空軍による空輸燃料弾薬を得なければならない」と切り出した。しかしこれが不可能であることを認め、「よって10000人以上の負傷者重火器及び車両をここに放棄しなければならない我らナポレオン後を追う」と続けた第6軍シュミット命令針鼠防御呼ばれる防衛戦術採用していたが、これは全周に対して縦深防御を行うというものである。その為、第6軍では各種物資徐々に欠乏し始めており、既に軍馬食料数えられつつあった。この会議の間、パウルスはほとんど黙りこくってただただシュミット同意示していたという。 11月22日午後シュミットパウルスはグマーラク (Gumarak) の新たな第6軍司令部移動したソ連包囲軍では22日夜にパウルスからヒトラー宛てた通信傍受している。シュミットパウルスは、ついにヒトラーによる死守命令反して南部脱出することが好ましいと同意し突破脱出作戦立案移った。しかし11月24日第6軍死守求め総統命令第6軍の上部隊であるドン軍集団司令官:エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥)を通じて届けられた。 11月24日早朝パウルスと私が南部への脱出為に必要な措置講じている最中軍集団から「総統命令」が届く[...]これはつまり、第6軍スターリングラード引き続き死守救援待てといった命令である。我々はすっかり驚いてしまった。というのも軍集団との会議で彼らは脱出作戦一定の理解示しており、我々は軍集団による命令変更期待していたのだから。パウルスと私はそれぞれ同じ結論達した。すなわち、現在の高司令部及び軍集団に従うことは、もはや不可能なのだと。 — 結局第6軍突破を図る余力残されていなかったこともあり、パウルスシュミット引き続き包囲下での持久決断した。この命令第6軍運命決定づけた。司令部決定下された直後11月25日、第51軍団長ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ砲兵大将パウルス向けて脱出計画詳細記した覚書届けており、シュミット次のように述べている。 我々はもはや総統考えを変える要はなく、またザイドリッツ将軍パウルス将軍考え方変えさせなければならなくなった。 — 12月11日第6軍脱出援護するために冬の嵐作戦発動されホト将軍装甲軍団包囲突破図った12月19日マンシュタイン元帥の元から派遣され情報将校アイスマン (Eismann) 少佐が、第6軍司令部にてドンナーシュラーク(Donnerschlag, 雷鳴作戦についてのブリーフィング行った。これはホト装甲軍団攻勢呼応し第6軍内側か包囲突破し脱出及び軍集団との合流目指すというもので、ドン軍集団立案したもののヒトラーには拒否されていた。しかし、パウルスシュミット総統命令違反することを拒み包囲下に止まることを選んだマンシュタイン回顧録の中で、シュミットパウルスよりも強い発言力持ち脱出不要という結論彼の判断によって下されたのだと記し、彼らは第6軍持久えすれば高司令部と軍集団補給行ってくれると信じていたのだと推測している。。 ドンナーシュラーク作戦対す第6軍姿勢決定付けたのは、参謀長意見であった。そうして、結局は脱出不可能である事とスターリングラードにおける降伏総統命令禁じられている事をパウルス認めてしまい、会議終ってしまった! — やがてソ連軍増援到着し冬の嵐作戦12月26日までに中止された。

※この「包囲下の第6軍」の解説は、「アルトゥール・シュミット」の解説の一部です。
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