包囲下の第6軍
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「アルトゥール・シュミット」の記事における「包囲下の第6軍」の解説
第6軍の情報将校フリードリヒ・フランツ・ニーマイヤー (Friedrich Franz Niemeyer) 中佐は何度も厳しい戦況の推移を伝えていたものの、シュミットは大戦初期の快進撃に縛られており、スターリングラードにおける赤軍の規模や能力に対する過小評価を断固として改めようとしなかった。ただしパウルスとは異なり、自己弁護を図ろうとはしなかったという。 1942年6月30日、ヒトラーは総統命令で他の枢軸国軍と連絡を取りあうことを禁じていたが、シュミットはゲルハルト・シュテック中尉(ベルリンオリンピックの金メダリスト)をスターリングラード北西のルーマニア軍に伝令として派遣し、連絡を試みた。しかし、ルーマニア軍はしばしばソ連軍集結に関する誤報を発信していたため、11月19日午前5時の「ウラヌス作戦発動間近」の通報も当初誤報として扱われた。就寝中だったシュミットには通報20分後まで報告がなされず、彼は目が覚めるなり激怒したという。 パウルスとシュミットの第6軍は、11月21日に包囲下に置かれた。文書及び物資を焼却処分した上でゴルビンスク (Golubinsky) の司令部を放棄し、ニジネチルスカヤ (Nizhne-Chirskaya) に移動した。ヒトラーは第6軍に対して「包囲は一時的なものである。引き続き死守せよ」という旨の命令を下す。11月22日、ニジネチルスカヤにてシュミットは第8航空軍団(英語版)司令官マルティン・フィービッヒ(ドイツ語版)大将に、第6軍は空輸による補給が必要だと伝えたが、フィービッヒ大将は「今やドイツ空軍は十分な航空機を有していない」と答えた。その日の午後、シュミットとパウルス、ヘルマン・ホト大将とヴォルフガング・ピッケルト(ドイツ語版)少将によって会議が開かれた。シュミットは、「我々が逃れるには、ドイツ空軍による空輸で燃料と弾薬を得なければならない」と切り出した。しかしこれが不可能であることを認め、「よって10000人以上の負傷者と重火器及び車両をここに放棄しなければならない。我らはナポレオンの後を追う」と続けた。第6軍はシュミットの命令で針鼠防御と呼ばれる防衛戦術を採用していたが、これは全周囲に対して縦深防御を行うというものである。その為、第6軍では各種物資が徐々に欠乏し始めており、既に軍馬も食料に数えられつつあった。この会議の間、パウルスはほとんど黙りこくって、ただただシュミットに同意を示していたという。 11月22日午後、シュミットとパウルスはグマーラク (Gumarak) の新たな第6軍司令部に移動した。ソ連包囲軍では22日夜にパウルスからヒトラーに宛てた通信を傍受している。シュミットとパウルスは、ついにヒトラーによる死守命令に反して南部へ脱出することが好ましいと同意し、突破脱出の作戦立案に移った。しかし11月24日、第6軍へ死守を求める総統命令が第6軍の上級部隊であるドン軍集団(司令官:エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥)を通じて届けられた。 11月24日早朝、パウルスと私が南部への脱出の為に必要な措置を講じている最中、軍集団から「総統命令」が届く[...]これはつまり、第6軍はスターリングラードを引き続き死守し救援を待てといった命令である。我々はすっかり驚いてしまった。というのも、軍集団との会議で彼らは脱出作戦に一定の理解を示しており、我々は軍集団による命令の変更を期待していたのだから。パウルスと私はそれぞれ同じ結論に達した。すなわち、現在の最高司令部及び軍集団に従うことは、もはや不可能なのだと。 — 結局、第6軍に突破を図る余力は残されていなかったこともあり、パウルスとシュミットは引き続き包囲下での持久を決断した。この命令が第6軍の運命を決定づけた。司令部で決定が下された直後の11月25日、第51軍団長ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ砲兵大将がパウルスへ向けて脱出計画の詳細を記した覚書を届けており、シュミットは次のように述べている。 我々はもはや総統の考えを変える必要はなく、またザイドリッツ将軍はパウルス将軍の考え方を変えさせなければならなくなった。 — 12月11日、第6軍の脱出を援護するために冬の嵐作戦が発動され、ホト将軍の装甲軍団が包囲の突破を図った。12月19日、マンシュタイン元帥の元から派遣された情報将校アイスマン (Eismann) 少佐が、第6軍司令部にてドンナーシュラーク(Donnerschlag, 雷鳴)作戦についてのブリーフィングを行った。これはホト装甲軍団の攻勢に呼応し、第6軍が内側から包囲を突破し脱出及び軍集団との合流を目指すというもので、ドン軍集団が立案したもののヒトラーには拒否されていた。しかし、パウルスとシュミットは総統命令に違反することを拒み、包囲下に止まることを選んだ。マンシュタインは回顧録の中で、シュミットはパウルスよりも強い発言力を持ち、脱出が不要という結論は彼の判断によって下されたのだと記し、彼らは第6軍が持久さえすれば最高司令部と軍集団が補給を行ってくれると信じていたのだと推測している。。 ドンナーシュラーク作戦に対する第6軍の姿勢を決定付けたのは、参謀長の意見であった。そうして、結局は脱出が不可能である事とスターリングラードにおける降伏が総統命令で禁じられている事をパウルスが認めてしまい、会議は終ってしまった! — やがてソ連軍に増援が到着し、冬の嵐作戦は12月26日までに中止された。
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