「ケッセル」の司令官
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「アルトゥール・シュミット」の記事における「「ケッセル」の司令官」の解説
ソビエト赤軍が捕虜となったドイツ将校をどう扱うのか聞かされたパウルスは、戦況悪化に伴い心身共に衰弱し、次第にシュミットが軍司令官の職務や権限を兼ねるようになってゆく。ビーバーは次のように記している。 包囲戦の最中、パウルスは司令部と呼ばれる牢獄に囚われ、参謀長と呼ばれる看守に監視されているのだと思い込んでいた。他の将校による「シュミットがパウルスと同等の権限で軍を指揮していた」という証言を得ていたこともあり、ニコライ・ダヤトリャンコ(英語版)(投降した第6軍将兵への尋問を行った赤軍の通訳)は、シュミットこそが第6軍における「ナチ党の目と手」であったと確信した。 — 別の歴史家サミュエル・ミッチャムも同じ見解を示している。 スターリングラードの戦況悪化に伴い、パウルスは自信を喪失し、彼と第6軍は参謀長の判断にすっかり依存してしまったのだ。こうしてアルトゥール・シュミットは、ドイツの為の戦いを事実上指揮する立場となったのである。シュミットは卓越した戦術スキルや大胆不敵な性質を備えた将校ではなく、むしろ頑固な楽観主義者で執念深く、疑問もなく上官に従う愚直な将校であった。パウルスとシュミットのこうした性格は、包囲下に置かれたスターリングラードの守備隊にとって致命的だった。 — パウルスはソビエト側と交渉しないと決定していた。例えば1943年1月8日と9日には、パウルスの副官ヴィルヘルム・アダム大佐が軍使としてソ連側軍使ダヤトリャンコ大尉の下へ送られている。パウルスはこの命令を発したことを否定しており、シュミットが命令を下したものと考えられている。ハンス=ヴァレンティーン・フーベ将軍がヒトラーからの連絡を携えスターリングラードにおける枢軸軍主力が集結したケッセル(Kessel, ドイツ語でやかん。転じて包囲下で孤立した拠点の意)を訪問したとき、第6軍司令部ではシュミットの立場がすっかり強化されていた。 この頃になると、既にシュミットはパウルス以上の権限を有していた。これはシュミットが根っからのナチ党員であったこと、またパウルスは第6軍の惨状と自分の責任を自覚しており、総統をなだめるためにはシュミットが最適と考えていたからである。ポイス及びランガーらは次のように記している。 シュミット参謀長はスターリングラードにおける最後の狂信的ナチ党員であった。パウルスにとってはヒトラーの権化であり、また彼こそがスターリングラードにおけるヒトラーであった。彼は上官の分身として、イデオロギーの元で戦った。[...]12月中旬以降、全ての幻想が消え失せ、包囲下の第6軍将兵が飢え続ける中でも、シュミットは訪問者に対して馬鹿げた作戦を語っていて、パウルスは一切異論を挟まなかった。 — 1943年1月6日、ヒトラーはシュミットに騎士十字章を与えた。同日、パウルスはクルト・ツァイツラー将軍に次のような通信を行った。 軍は飢餓と極寒に晒され、銃弾は皆無で、戦車はもう動かせない。 1月17日、シュミットは中将に昇進。1月19日、グマーラク飛行場の状況を視察するべく第8航空軍団からティール(Thiel)少佐が派遣された。彼が既に十分な補給を遂行しうる状況にないと判断した旨をパウルスとシュミットに報告したところ、パウルスは空軍が第6軍への物資空輸を請け負っていた事を理由にこれを非難した。 君は想像できるか?兵士が軍馬の死体を食べていることを。その頭を切り分け、生の脳みそを貪り食っていることを。 — また、シュミットもその非難に続いた。 [...]どうにも君の言葉は空軍のやり方を正当化しているように聞えるが、空軍はドイツ歴史史上最大の裏切りを犯したのだぞ。[...]我が軍は、我が偉大なる第6軍は、そうやって犬のような様で振舞わねばならないのだ。 — その後、シュミットとパウルスは、赤の広場に程近いウニヴェルマーク百貨店の前に司令部を移動した。 1月30日夜、第6軍司令部は「我が兵士は、最後に国歌を聞いて、祖国ドイツに敬礼した」と発信したが、ビーバーによれば、この通信はパウルスではなくシュミットが行った可能性が高いという。1月31日、第6軍司令部の守備隊が投降する。シュミットは第64軍司令官ミハイル・ステファノヴィチ・シュミロフ(Mikhail Stepanovich Shumilov)将軍が派遣した軍使と降伏条件について話し合い、その間パウルスは隣の部屋で待たされていたという。これがパウルスが降伏という不名誉から少しでも遠ざかろうとした結果なのか、あるいはパウルスの神経が衰弱していたためなのかは議論が分かれている 。 シュミットはパウルスやアダム大佐と共にザヴァルキノ(Zavarykino)のドン正面軍司令部に連行され、尋問を受けた。ソ連軍の将校が自殺用の刃物などを所持していないかパウルスの手荷物を検査しようとした時、シュミットは「ドイツの元帥がハサミで自殺などするものか」と鋭く言い放ったという。尋問に先立ち、パウルスがシュミットにどうするべきかと相談すると、シュミットは「君は自分がドイツの元帥だと思い出すべきだ」と応じた。ソビエト側の尋問記録によれば、彼らは親しい間柄で使われる呼びかけの "du" で呼び合っていたという。ただし、第6軍司令部付将校だったヴィンリッヒ・ベーア(Winrich Behr)大尉は、彼らの関係を考えると考え難いことだと語っている。
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