「ケトル」の閉鎖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 06:02 UTC 版)
「デバルツェボの戦い」の記事における「「ケトル」の閉鎖」の解説
1月31日にはDPRのデバルツェボ砲撃で住民12人以上が死亡した。同時に、政府軍もDPRの増援がVuhlehirskへ侵入するのを阻止するために砲撃を継続した。町から分離派を排除する地上攻勢は失敗し、ドンバス大隊のメンバーが3人死亡しセメンチェンコ大隊長が負傷した。厳寒の中でもデバルツェボからの住民の避難は継続していた。その日の時点で、都市では水、ガソリン、または電気が少なくとも10日間利用できなかった。ウクライナのアルセニー・ヤツェニュク首相によれば、1月31日までにデバルツェボから少なくとも1000人が避難した。ステパン・ポルトラク国防相はデバルツェボの一部がDPRの支配下にあることを認めた。 2月1日、デバルツェボの状況は急速に悪化した。「キーウ・ポスト」によれば、ウクライナ国家親衛隊の一部の部隊はDPR軍が都市近郊へ侵攻してきたため退却を余儀なくされた。 2月2日、状況は悪化し続けており、ニューヨークタイムズは分離派がアルテーミウシク・ハイウェイを「今すぐにも」確保できるようだと報じた。道路はほぼ通行できなくなっており、避難民を乗せた複数のバスに砲撃が命中した。デバルツェボ周辺のウクライナ支配地域のポケットは一般的に「ケトル」(kettle)と呼ばれるようになり、DPRのリーダーのアレクサンドル・ザハルチェンコは「ケトルを離れようとする者は誰でも我々の火砲の砲撃地帯に入ることになる」と語った。戦闘地域の援助隊員による報告では、2月2日までにデバルツェボ地域から住民8000人が避難したとされた。援助隊員の1人は親露派勢力が市外への住民の移送に使われているバスを意図的に標的にしていると述べた。アムネスティ・インターナショナルのオブザーバーはデバルツェボの人道状況は「壊滅的」になったと述べた。デバルツェボに残っているウクライナ軍を支援するために軍は装甲車、輸送車を含む大規模な増援の隊列をクラマトルスクの作戦基地から包囲されているデバルツェボへ送った。 2月3日、分離派とウクライナ軍は停戦することで合意した。停戦は残っている民間人をデバルツェボ地域から避難できるようにするためだとされた。13:00(EET)まで砲撃は減少していたが、その後はデバルツェボの完全破壊を試みる反体制派によるとみられるデバルツェボへのBM-21の一斉砲撃が始まった。戦闘は翌日まで続き、アルテーミウシクへ避難してきたデバルツェボの住民の1人は市内には「何も残っていない」と述べた。 2月4日、DPR軍はVuhlehirskを占領したことによって、アルテーミウシク・ハイウェイとデバルツェボへの砲撃を増やすことができるようになった。DPRとウクライナ軍は残っている市民がデバルツェボから避難できるようにするために2月6日に人道回廊を設置することに合意し、何百人もの民間人が避難することができた。戦闘は2月7日に再開した。 2月9日、DPR軍はロフビネ(Lohvynove)村を占領したことで、完全に街を包囲したとし、「ケトルを閉じている」と述べた。当時村に駐留していたウクライナ兵は4人だけだったため、分離派が容易に村を占領することが出来た 。政府軍はアルテーミウシク・ハイウェイでの戦闘は継続中であり、包囲されていないと述べた。 2月10日、朝までに、分離派勢力が政府軍を排除し、アルテーミウシク・ハイウェイを占領した。映像ではDPRの民兵と戦車がハイウェイに沿って移動している様子を示している。当日には、Lvivの警察署長が町近郊の道路での爆発で負傷した。 2月11日、ウクライナ軍は砲撃で重大な損害を受け、24時間で兵士19人が死亡、78人が負傷した。死亡した兵士達はデバルツェボ近郊の「Hostra Mohyla hill」付近で戦闘を行っていた。加えて、DPR軍はデバルツェボの警察本部を襲撃し、市の警察署長を殺害した。さらに、DPR軍はクラマトルスクの政府庁舎および陸軍本部庁舎に対してデバルツェボからロケット攻撃を行った。また、ロシア連邦軍の2個大隊戦術群が南方軍管区から展開した。
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