包囲の開始とドイツ軍最初の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 05:29 UTC 版)
「ブダペスト包囲戦」の記事における「包囲の開始とドイツ軍最初の反撃」の解説
攻勢は街の東側ペシュトへ向けられ、中央大通りを急速に進撃してくる赤軍にドイツ軍・ハンガリー軍は圧倒された。効果的な反撃は不可能と思われたため、ドイツ・ハンガリー軍の指揮官はせめて敵の進撃を遅らせるため、遅滞戦術を作戦の中心とし、最終的にはペシュトを放棄してドナウ川を渡って後退、ブダの丘が多い地形を利用してさらなる防衛戦を行うこととした。 1945年1月、ドイツ軍はコンラート作戦と呼ばれる解囲作戦を開始、包囲された防衛部隊を救出するためのドイツ・ハンガリー両軍共同の作戦であり、三次にわたって行われることになる。 1月1日、第一次コンラート作戦が開始、ドイツ第4SS装甲軍団は赤軍の包囲を撃破するためにブダペストでも丘の多い北側を進んでタタから攻撃を行った。同時に武装親衛隊の部隊が戦術的優位を確立するためにブダペスト西から攻撃を行った。1月3日、赤軍はこの脅威に対応するために4個師団を派遣、ブダペスト西20キロ近くのビツシュケ (en) でドイツ軍の攻撃を阻止、1月12日、ドイツ軍は撤退を余儀なくされた。 1月7日、ドイツ軍は第二次コンラート作戦を開始、ドイツ第4SS装甲軍団はブダペストの飛行場を奪回し、空輸の効率を改善するためにエステルゴム方面から攻撃を開始した。 1月17日、第三次コンラート作戦が開始、ドイツ第4SS装甲軍団、第III装甲軍団はブダペスト南方より攻撃を行い、赤軍4個師団の包囲を試みた。
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