包囲の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/24 14:33 UTC 版)
5月5日午前6時20分、ラング集団のオスカル・フォン・ホーヘンハウゼン中佐が指揮する突撃砲を主力とした突撃部隊により赤軍包囲部隊の一部が撃破され、防衛線の穴からラング集団が市街へ突入した。こうして105日にわたる赤軍の包囲は崩壊したのである。16時10分には電話線が敷設され、16時25分にはラング集団から最初の完全な大隊が送り込まれた。この直後、シェーラー将軍と第39装甲軍団長ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム装甲兵大将および第16軍司令官エルンスト・ブッシュ上級大将との連絡が確立されるも、依然としてホルムを巡る攻防戦は続いた。5月18日には赤軍が市街南東部から撤退し、1942年6月8日にはドイツ軍によって市街北東部が完全に制圧され、5か月に渡るホルムの戦いは終結した。その後もホルムはドイツの占領下に置かれていたが、1944年2月21日には赤軍の大攻勢(トロペツ=ホルム作戦)に晒され、戦火を交えることなくして武装解除された。ホルムを巡る戦いに参加したドイツ軍人および軍属・民間人のうち、およそ1,550人が戦死し、またおよそ2,200人が傷病兵となった。一方、ソ連側については動員数が記録されているのみで、明確な被害規模に関する資料は残されていない。
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