2つの戴冠式:1429年から1431年
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「イングランド・フランス二重王国」の記事における「2つの戴冠式:1429年から1431年」の解説
ヘンリー6世の生涯の中で最も有名な出来事は、2つの戴冠式である。最初は1429年11月6日のロンドン・ウェストミンスター寺院で、次に1431年12月16日のパリ・ノートルダム大聖堂で。イングランドにおける戴冠式はオルレアン包囲の崩壊に応じ、英仏議員によって根本原理を引きだした。ヘンリー6世のイングランドでの戴冠式は既に7年も延期されていたが、年齢による延期の理由はないとして、ベッドフォード公はパリでの戴冠式を提案した。シャルル7世がランスでの伝統的な聖堂でフランス王として戴冠することで、ヴァロワ家が成功を収めたことは深い衝撃であった。ベッドフォード公はヘンリー6世がパリで戴冠すればオルレアンの敗戦は帳消しになると信じて、ヘンリー6世のフランスでの戴冠式にすぐに同意した。1429年7月16日のシャルル7世のランスでの戴冠式は、1420年代のイングランド側の立場と比べると普通ではない象徴的な出来事として重要性があった。しかし、1427年の終わりまでフランスとイングランドは、迅速に広範囲にわたってフランスを征服するという頂点を維持する戦略的軍事計画を巡って言い争ってきた。パリ三部会は、ノルマンディー南東部付近はフィリップ善良公に割り当てられたことを知らせ、ベッドフォード公はノルマンディーに集中させることができた。イングランド人はフランスにおけるイングランド体制に懸念を示していた、彼らは以前にイングランドで戴冠を済ませた王がフランスで戴冠する考えに賛成できなかった。 1429年のジョン・リードゲートによる詩は、ヘンリー6世が将来に相続すべきであろうイングランドとフランスの二重の王権を率直に述べている。フランス王シャルル6世とその孫であるヘンリー6世の間柄が直接の関連性を生み出した。ヘンリー6世の系譜には、聖王ルイ9世の子孫とするものと、エドワード殉教王の子孫とするものが並行して描かれている。これはジョン・リードゲートの詩では言及されていないが、フランスの作品から幅広く翻訳されたことは疑いようもない。しかし、1429年11月6日の王の戴冠式を描いた別の詩では、ヘンリー6世は両聖王の子孫であることが言及されている。 全ての美徳で全て輝く貴方の父……幸福な生活を送る貴方の母方の血統である王妃カトリーヌ……有徳から湧き出る高貴な血筋は必然的に良い果実に育たなければならない。 そこでは王は同時にクロヴィス1世の子孫であることも言及されている。神は天使を遣わすことで、ヘンリー6世のフルール・ド・リス下でのイングランドとフランスを保証し、完全な信仰と三位一体による不変の三者の連合を示している。実際の聖油式と戴冠式はボーフォート枢機卿によって執り行われた。 1430年4月23日、ヘンリー6世はフランスで戴冠式を執り行うためにボーフォート枢機卿、ベッドフォード公、テルアンヌ、ノーフォーク、ボーヴェ、エヴルーの各司教とともにドーヴァーを発った。1431年12月16日にフランスでの戴冠式を行う「途中」で、パリ郊外にあるフランス王の聖なる埋葬地であるサン=ドニ大聖堂へ旅をした。2日より早い最初にキリストが再臨した日曜日(この伝統的な日にフランス王は大聖堂を行進することで象徴的に天の王を演じようとするのである)にノートルダム大聖堂にて戴冠式は鮮やかに執り行われた。ヘンリー6世は25人のトランペット隊と2000〜3000人の衛兵に先導された。王室の随員によって執り行われるパリへの凱旋ルートは大概、北から入る。トランペットをなびかせて“フルール・ド・リス”が舞う中、王の宮殿に至るセーヌ川の橋を行列は進む。そこで若い王はサント・シャペルの聖遺骨に接吻をした。道筋はシテ島の西方部分に移って聖堂は鮮やかに見えなくなり、そしてベッドフォード公夫妻が待つ東部のオテル・デ・トゥルネレへ向かった。この日、国王は市の東部で自らの戴冠式を待った。ノートルダムに捧げるための準備は執り行われ、黄金の服は戴冠式の日のために仕立てられた。立派に掲げられた高壇にて聖別され戴冠した主権者は座っていた。階段は頂点から“フルール・ド・リス”が添えられた青色の布で覆われていた。戴冠式の間、パリの聖堂の聖歌隊に、伝統的に多声の形態で歌うイングランド王室教会聖歌隊も加わっていた。 再び、実際に戴冠式を執り行ったのはボーフォート枢機卿であるが、彼の立場は実際にはパリ司教に保持されていたものであった。パリ司教にさらに衝撃を与えたのが、別の立場を任命されたボーフォート枢機卿が教会に仕える聖なるミサの部分を演じたことである。戴冠式は、“二重の血統”を示すこととフランス人がシャトレーのタブローを演じることで重要な儀式の形態を有した。フランスの盾として捧げるブルゴーニュ公とその息子であるヌヴェール伯を演じる役者と、イングランドのライオンの防壁として捧げるベッドフォード公夫妻を演じる役者の許で、英仏の王を表す黄金の“フルール・ド・リス”を身にまとった少年の頭上には、2つの王冠がバランス良く掲げられていた。 暗い影を与えたのは、フィリップ善良公がリールでガーター騎士団に任命されて以来、1430年から1432年にかけて自らが認識した主権者と全く会っていないことであった。輝かしさと栄光とは裏腹に、戴冠式は局面の打開には至らなかった。ブルゴーニュに対するイングランドの疑念は、戴冠式の3日前にフィリップ善良公がシャルル7世と6日間の休戦を結んだことが判明したように、実質的な戦闘の目立った関心事となった。戴冠式はボーフォート枢機卿、幾人かのイングランド人と親英的なフランスの司教によって執り行われた、純粋にイングランドの出来事であった。戴冠式は1マイル置きにイングランドの領域を侵食するヴァロワ家の脅威への抵抗になりえなかった。ヘンリー6世は自らのフランスにおける王国にわずか2年間だけ君臨した後、カレー経由でイングランドに帰国して、二度とフランスに足を踏み入れることはなかった。 このことは後、1432年の後半になってカンタベリー大司教により、ヘンリー6世はフランス滞在中に自らの望む成果を達成することが出来ず、実際にはノルマンディーにおけるイングランドの力は弱まっていると確信させるに至った。ベッドフォード公は1432年の妻アンヌの死のため喪に服しており、シャルル7世によって新領土は奪われていった。5ヶ月後にベッドフォード公はフィリップ善良公を信用しないリュクサンブール=リニー家出身のジャケットと再婚したことで、ベッドフォード公とフィリップ善良公のアンヌを介した個人繋がりが喪失して以来のアングロ=ブルギニョン関係の緊迫は目立ったものになった。最後の3年間がイングランドを軍事的委託に駆り立て、フィリップ善良公は戦争は自らにとって非常に負担が大きいものであることを悟った。
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