2つの戦争間の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/22 14:08 UTC 版)
「サミュエル・デュポン」の記事における「2つの戦争間の時代」の解説
デュポンは次の10年間の大半は陸上勤務となり、この時期に努力したことはアメリカ海軍の近代化に貢献したとされている。蒸気機関の可能性を研究し、教科として工学や数学を強調して新しい海軍兵学校に設定した。兵学校の校長に指名されたが、それは定年が近い物により適したポストだと考えて、4ヶ月で辞任した。デュポンは海軍の大半が当時任せられていた港湾の防衛よりもより行動的で積極的なものを推奨し、海軍の規則や既定の改定に動いた。アメリカ合衆国灯台局理事に指名された後で、その旧式なシステムを向上させる提案は灯台法としてアメリカ合衆国議会に大きく採用された。 1853年、デュポンはアメリカ合衆国では初めての国際博覧会と考えられているニューヨークで開催された世界産業博覧会の総監督となった。国際的には称賛されたが入場者が少なくて大きな負債を抱えることになり、デュポンは辞任した。 デュポンは海軍の改革について熱心な支持者となり、1855年の議会法を支持する中で『海軍の効率推進』を書いた。海軍効率理事会に指名され、201名の海軍士官排除を監督した。首切りの対象になった者達が議会の友人を頼ったときに、デュポン自身も大変な批判に曝され、その後の解任審査で一旦排除された者達の半分近くが復職した。 デュポンは1855年に海軍大佐に昇進した。1857年、USSミネソタの艦長となり、駐中国アメリカ公使ウィリアム・リードが北京に赴くのを送るよう命じられた。デュポンのUSSミネソタは中国でパレードした西洋の17戦闘艦の1隻となり、中国がその港を広く開港するよう要求されたのにそれを満たせなかった後の1858年4月28日、フランスとイギリスによって海河の中国砦が占領されるのを目撃した。デュポンはその後、日本、インド、およびアラビアを回航し、1859年5月にボストンに戻った。翌年デュポンは日本の遣米使節団を受け入れることに大きな役割を果たし、3ヶ月にわたってワシントンD.C.、ボルティモアおよびフィラデルフィアを回るのに同行した。この遠征は日米貿易と投資に途を開くことになった。デュポンは1860年にフィラデルフィア海軍造船所の指揮官となった。デュポンはこの職を最期に退役を予測したが、南北戦争の勃発で実戦任務に戻ることになった。
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