2つの戦争の間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 00:25 UTC 版)
「ジョージ・ワシントン」の記事における「2つの戦争の間」の解説
ワシントンはニューケント郡パマンキー川の南岸にあるホワイトハウス・プランテーションに住んでいる未亡人、マーサ・ダンドリッジ・カスティスに紹介された。フレンチ・インディアン戦争の最中で休暇を取って帰った時に、マーサの友人が案内した。ワシントンは初めて会ってから3週間の間にマーサの家を2回訪れただけで結婚を申し込んだ。2人は共に27歳であり、1759年1月6日にマーサの家で式を挙げた。新婚の2人はマウントバーノンに移動し、そこでワシントンは上流階級の農園主で政治的な関わりを持つ貴族的な生活を送った。マーサの以前の夫、ダニエル・パーク・カスティスとの間にできた連れ子ジョン・パーク・カスティスとマーサ・パーク・カスティスを育て、2人を愛情を込めてジャッキーとパチィと呼んだ。ワシントン夫妻には子供ができなかった。おそらくワシントンが天然痘にかかったことがあり、その後結核によって無精子症になった可能性がある。後にジャッキーが死んだ1781年以後はその子供達、エレノア・パーク・カスティス(ネリー、1779年 - 1852年)とジョージ・ワシントン・パーク・カスティス(ワシー、1781年-1857年)を育てた。 ワシントンは裕福な未亡人と結婚してその資産を増し、社会的地位を上げた。結婚した時にカスティスの資産18,000エーカー (73 km2) からその3分の1にあたる土地を取得し、その残りはマーサの2人の子供たちのために管理した。その後もたびたび自分名義で土地を買い増していき、またフレンチ・インディアン戦争の報償として現在のウエストバージニアに土地の特許を認められた。1775年までにマウントバーノンは2倍の6,500エーカー (26 km2) となり奴隷を100人以上所有した。ワシントンは戦争の英雄としてまた大土地所有者として尊敬され、地域の役職を務め、1758年からはバージニア植民地議会にも選ばれた。 ワシントンは1769年に高まった植民地の反抗で指導的な役割を担った。このとき友人のジョージ・メイソンが起草した提案書で、タウンゼンド諸法が撤廃されるまではイギリス製品のボイコットをバージニア植民地に呼びかけていた。イギリスの議会はこの法律を1770年に撤廃した。ワシントンはその仲間の市民の活動も積極的に支援した。1771年9月21日、ボルチモアの商人ジョナサン・プローマン・ジュニアのためにニール・ジェイムソンに宛てて手紙を書いた。プローマンはその所有する船が無許可品を輸出した廉でボストンのフリゲートに拿捕されており、その船を取り戻すためにワシントンの助力を求めてきていた。ワシントンは、1774年の耐え難き諸法の成立を「我々の権利と主権に対する侵害」と見なした。7月、ワシントンは会議を主宰し、大陸会議の招集を求めるフェアファックス決議を採択した。8月、バージニアの最初の会議に出席し、第一次大陸会議の代議員に選ばれた。1776年、トマス・ペインの『コモン・センス』を読むまで彼は植民地の独立を支持しなかった。
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