包囲完了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 23:47 UTC 版)
「ファレーズ・ポケット」の記事における「包囲完了」の解説
ドイツ軍の脱出を防ぐ事は連合軍にとって重要な問題であった。しかし、8月17日の時点で、アメリカ軍はアルジャンタンを包囲しているに過ぎず、またカナダ軍はゆっくりとトルンへ進撃している途中で包囲はまだ不完全であった。カナダ第1軍配下のポーランド第1機甲師団(師団長スタニスワフ・マチェク)は4つの戦闘グループに分割されて、南東へ向かい、シャンボワでアメリカ軍に合流するよう命令された。8月14日、トルンはカナダ第4機甲師団に確保された。ポーランドの4個戦闘グループはシャンボワを占領し、8月19日、シャンボワに集合した。そして補強を受けて夕方までシャンボワを守備し、アメリカ第90師団、自由フランス第2機甲師団と接触した。しかし、包囲は完成していたが、ドイツ第7軍の脱出路を完全に押さえておらず、ドイツ軍は必死の反撃を見せた。日中、第2戦車師団の装甲部隊はサン・ ランベールでカナダ軍を突破し、その突破口は夕方に再び閉じられるまで約6時間、開いていた。ドイツ将兵の多くがこの脱出路を使用し、その他の少数の将兵が夜間にダイバスを通って脱出した。 シャンボワを保持していた4個ポーランド戦闘グループの2個グループは北東へ向かい、262高地(オルメル山、Hill 262 (Mont Ormel))へ進撃、8月19日夜間、丘へ通じる塹壕を掘った。翌日、モーデルは包囲をこじ開けるために262高地を保持するポーランド部隊へ包囲網の外側から攻撃するよう第2SS装甲師団、第9SS装甲師団に命令した。正午頃、第9SS装甲師団がカナダ軍の攻撃を防いでいる間に、第10SS装甲師団、第12SS装甲師団、第116装甲師団の一部部隊がポーランド部隊防衛線の弱い地点を突破、午後半ばには、ドイツ軍将兵約10,000が脱出に成功した。ドイツ軍の強力な攻撃の前にポーランド部隊は孤立したが、それでも262高地を保持し、それらは「The Mace」と呼ばれた。ポーランド部隊には脱出を防ぐだけの戦力がなかったが、退却するドイツ軍を見渡すことができ、それは砲撃の目標を確認するのに大いに有効であった。そのため、連合軍からの砲撃でドイツ軍は多大な犠牲を払わなければならなかった。それを重く見たモーデルは第7軍(司令官パウル・ハウサー)にポーランド部隊を排除するよう命令した。ドイツ軍の第2SS装甲師団の残存戦力と第352歩兵師団による攻撃はポーランド第1機甲師団の第8、第9大隊に多大な損害を与えたが、撃退された。ドイツ軍にはもはや投入する戦力が存在せず、第XLVII装甲軍団の残存部隊が包囲から脱出するのを見届けるしかできなかった。夕暮れには、両軍の間での激しい戦闘が収まった。ポーランド部隊は夜間もドイツ軍の脱出を防ぐべく、砲撃支援のためにドイツ軍の動きを監視し続けたが、戦闘は散発的に行われただけであった。 翌朝、昨日ほどは統制は取れてはいなかったが、ドイツ軍による攻撃は再開された。ポーランド部隊はドイツ軍を撃退するために戦車の砲弾を使い果たすことを強いられた。正午頃、第9大隊へ武装SSによる最終攻撃が開始され、第9大隊は撃破された。それからしばらくして、カナダ近衛擲弾兵連隊が226高地へ到着、夕方前には、ドイツ軍第2SS装甲師団と第9SS装甲師団の残存部隊はセーヌ川へ退却を始めた。3日間の間、226高地防衛のために常に戦い続けたポーランド第1機甲師団は戦死者325名、負傷者1,002名、行方不明者114名で戦力の20パーセントを損失していた。8月21日の夕方までに、カナダ第3、第4歩兵師団がサン・ ランベールとシャンボワから北へ抜ける道路を確保、カナダ第4機甲師団の戦車がポーランド部隊と接触した。ファレーズ・ポケットはここに完成した。
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