鎌倉道の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 13:53 UTC 版)
調査区の北西部からは「道路」の跡が見つかった。道路は調査区内で長さ約43メートル分が見つかり、幅10メートル弱の南北に軸をもつ直線道で、路面の土は踏みしめられて固まっていた(硬化面という)。硬化面の下には「波板状凹凸遺構」という中世(鎌倉時代から安土桃山時代)の道路に特徴的な遺構も見つかった。このことから、この道路跡は、鎌倉時代に北関東や奥州方面から鎌倉に向かっていた「鎌倉道」と考えられた。 鎌倉道は「上の道」「中の道(吉田道)」「下の道」の3道があったという。『吾妻鏡』によると、仁治元年(1240年)10月10日に鎌倉幕府執権北条泰時が「中の道(吉田道)」の新道(新中の道 山内道路)を建設するよう指示しており、発掘で見つかった道はこの「山内道路」と考えられるという。
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