笠間中央公園遺跡とは? わかりやすく解説

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笠間中央公園遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/05 22:21 UTC 版)

地図

笠間中央公園遺跡(かさまちゅうおうこうえんいせき)は、神奈川県横浜市栄区笠間二丁目にある複合遺跡笠間中央公園の造成時に発見された[1]

概要

同遺跡は、大船駅より北東に900メートル離れた、周囲を平野に囲まれた小山に位置する。この小山の上は比較的平らで、公園整備ための工事の過程で遺跡の存在が発見、確認された。1992年(平成4年)6月、1999年(平成11年)3月、1999年(平成11年)8月~2000年(平成12年)3月に、あわせて約4000平方メートルの敷地が発掘され、弥生時代から鎌倉室町時代頃にいたるまで、複数の時代の遺跡が検出された。

約2000年前の弥生時代中期に方形周溝墓群(墓地)が造られ、同時代後期からはムラが形成され、竪穴建物掘立柱建物などが多く建てられた。ムラは古墳時代前期と後期、また奈良平安時代にも形成された[2]

鎌倉道の発見

調査区の北西部からは「道路」の跡が見つかった。道路は調査区内で長さ約43メートル分が見つかり、幅10メートル弱の南北に軸をもつ直線道で、路面の土は踏みしめられて固まっていた(硬化面という)。硬化面の下には「波板状凹凸遺構」という中世(鎌倉時代から安土桃山時代)の道路に特徴的な遺構も見つかった。このことから、この道路跡は、鎌倉時代に北関東奥州方面から鎌倉に向かっていた「鎌倉道」と考えられた。

鎌倉道は「上の道」「中の道(吉田道)」「下の道」の3道があったという。『吾妻鏡』によると、仁治元年(1240年)10月10日に鎌倉幕府執権北条泰時が「中の道(吉田道)」の新道(新中の道 山内道路)を建設するよう指示しており、発掘で見つかった道はこの「山内道路」と考えられるという[2][3]

脚注

参考資料

関連文献

関連項目

座標: 北緯35度21分32.2秒 東経139度32分17.5秒 / 北緯35.358944度 東経139.538194度 / 35.358944; 139.538194




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