鎌倉時代・吾妻鏡の記録とは? わかりやすく解説

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鎌倉時代・吾妻鏡の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 14:48 UTC 版)

巨福呂坂」の記事における「鎌倉時代・吾妻鏡の記録」の解説

『吾妻鏡』には貞応3年1224年12月26日の条(※11月20日元仁元年改元)に四角四境祭記述があり、その中に所謂四境は、東六浦・南小壺・西稲村北山内」とある。その後文暦2年1235年12月20日条(※9月19日嘉禎元年改元)の四角四境祭では小袋坂地名見える。この山内小袋坂はこの場合は同じ場所、ないしは近辺考えて良く北鎌倉駅ホームから北側高台見える後の山ノ内鎮守八雲神社その場所に建てられたとの伝承がある。 仁治年間鎌倉幕府執権北条泰時命じて作らせた切通し一般に思われており、それを強いて否定すべき記録も無いが、『吾妻鏡』延応2年1240年10月10日条および10月19日条(※改元仁治元年)に出てくるのは「山内道路を造らる」であり、建長寺から鶴岡八幡宮寺までの峠道であるかどうか明文ではない。なおその工事事情は「これ嶮難の間、往還煩い有るに依ってなり」とある。 その10年後の建長2年1250年6月3日の条には北条泰時の孫の北条時頼沙汰として「山内並びに六浦等の道路」とあり、その工事理由として、先年山内道路作って往来容易にしたが崖崩れ等により土石埋もれてしまったので、とある。 「先年」とは北条泰時命じた工事であることは確実であろうが、この場合山内北条泰時にとっては現在の大船5丁目常楽寺近辺別業別邸)からであり、北条時頼にとっては山内西亭(現在の明月院近く)からの往来であって、そのルートは現在言われる巨福呂坂切通亀ヶ谷坂切通2つとも該当する鎌倉史の学者世界では「はっきりとは判らない建長寺前を通る峠道みなして大過あるまいと言うレベルである。

※この「鎌倉時代・吾妻鏡の記録」の解説は、「巨福呂坂」の解説の一部です。
「鎌倉時代・吾妻鏡の記録」を含む「巨福呂坂」の記事については、「巨福呂坂」の概要を参照ください。

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