鎌倉時代・吾妻鏡の記録
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『吾妻鏡』には貞応3年(1224年)12月26日の条(※11月20日に元仁元年に改元)に四角四境祭の記述があり、その中に「所謂四境は、東六浦・南小壺・西稲村・北山内」とある。その後、文暦2年(1235年)12月20日条(※9月19日嘉禎元年に改元)の四角四境祭では小袋坂の地名が見える。この山内と小袋坂はこの場合は同じ場所、ないしは近辺と考えて良く、北鎌倉駅ホームから北側の高台に見える後の山ノ内の鎮守八雲神社がその場所に建てられたとの伝承がある。 仁治年間に鎌倉幕府執権、北条泰時が命じて作らせた切通しと一般に思われており、それを強いて否定すべき記録も無いが、『吾妻鏡』延応2年(1240年)10月10日条および10月19日条(※改元・仁治元年)に出てくるのは「山内の道路を造らる」であり、建長寺から鶴岡八幡宮寺までの峠道であるかどうかは明文ではない。なおその工事の事情は「これ嶮難の間、往還の煩い有るに依ってなり」とある。 その10年後の建長2年(1250年)6月3日の条には北条泰時の孫の北条時頼の沙汰として「山内並びに六浦等の道路」とあり、その工事の理由として、先年山内の道路を作って往来を容易にしたが崖崩れ等により土石に埋もれてしまったので、とある。 「先年」とは北条泰時が命じた工事であることは確実であろうが、この場合の山内は北条泰時にとっては現在の大船5丁目の常楽寺近辺の別業(別邸)からであり、北条時頼にとっては山内西亭(現在の明月院の近く)からの往来であって、そのルートは現在言われる巨福呂坂切通と亀ヶ谷坂切通の2つとも該当する。 鎌倉史の学者の世界では「はっきりとは判らないが建長寺前を通る峠道とみなして大過あるまい」と言うレベルである。
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