「血縁」による「武士団」の結合とは? わかりやすく解説

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「血縁」による「武士団」の結合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:10 UTC 版)

武士団」の記事における「「血縁」による「武士団」の結合」の解説

平安時代末期それこそ12世紀中頃武士団結合はどうだったのかというと、一番強い結束力はやはり「血縁」だったようである。 しかし、ここでも近世における「家」からの先入観は一旦捨て去った上で、「血縁」を考え必要がある平安時代中期までは現在想像されるような「家」という概念はあまり無かった。これは天皇家から貴族社会に至るまでそうだった。そこでの「血縁」は、「家」ではなく、妻と夫、婿・嫁と姑、甥と叔、親と子・孫々という血縁であって、よく「イエ」と「ミウチ」という言い方をされる。摂関時代は「ミウチ」の世界であり、それ故摂関家自体天皇の「ミウチになった者が摂関となるのであり、嫡男などという概念は無い。例え摂関家の礎を築いたといわれる藤原基経から、最盛期藤原道長までの間を見るとそのこと良く解る。 「イエ」の概念生まれるのは、白河法皇院政時代から徐々にである。「武士団」の時代は、主にその院政時代以降であり、その意味では「イエ」による結合継承徐々に強まってはいたが、しかし後の世の「嫡流」、「本家」というような「父系家族制度」の概念捕らわれ過ぎるとこの時代見誤る親子の関係なら、子は親に絶対服従だが、兄弟となると互いにライバル要素強くなる。実は「父系家族制度」と「母系家族制度」が混在していたのが平安時代考えておいた方が良いと思う。良い例有名な平将門の乱である。そもそもの発端は、平将門叔父達の「婿入り先」であって、それによって平将門叔父達は関東、特に常陸国上総国下総国武蔵国などに地盤築いた見られ、その「婿入り先」同士利害対立が、平将門叔父従兄弟同士抗争に結びついていった形跡がある。 12世紀に入ると「父系家族」の色彩強くなるが、「子は親に絶対服従」に近いものがあると同時にそれ以前同様に婚姻による義父と婿もまた強い絆とみなされている。それは家と家との政略結婚というよりは個人的であり、配偶者の父、祖父はじぶんの父、祖父にも準ずる義理の兄弟は兄弟準ずるという範囲理解していれば大きく違わないその意味では摂関時代の「ミウチ」の世界が、まだ一部には残っていたという見方出来る。 物語ではあるが、『曽我物語』(真字本まなぼん)に見る頼朝挙兵前の開発領主姻戚関係を見ると、大庭御厨濫妨から、石橋山の合戦までの相模近辺武士団の関係、勢力範囲がよく表されている。関東開発領主連合は、婚姻関係によって維持されていた形跡極めて強い。三浦氏頼朝挙兵から宝治合戦での滅亡までの間の外戚についても、戦国大名政略結婚とはまた違った婚姻関係による共同行動運命共同体がよく見てとれる。

※この「「血縁」による「武士団」の結合」の解説は、「武士団」の解説の一部です。
「「血縁」による「武士団」の結合」を含む「武士団」の記事については、「武士団」の概要を参照ください。

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