「血縁」による「武士団」の結合
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「武士団」の記事における「「血縁」による「武士団」の結合」の解説
平安時代末期、それこそ12世紀中頃の武士団の結合はどうだったのかというと、一番強い結束力はやはり「血縁」だったようである。 しかし、ここでも近世における「家」からの先入観は一旦捨て去った上で、「血縁」を考える必要がある。平安時代中期までは現在想像されるような「家」という概念はあまり無かった。これは天皇家から貴族社会に至るまでそうだった。そこでの「血縁」は、「家」ではなく、妻と夫、婿・嫁と姑、甥と叔、親と子・孫々という血縁であって、よく「イエ」と「ミウチ」という言い方をされる。摂関時代は「ミウチ」の世界であり、それ故に摂関家自体、天皇の「ミウチ」になった者が摂関となるのであり、嫡男などという概念は無い。例えば摂関家の礎を築いたといわれる藤原基経から、最盛期の藤原道長までの間を見るとそのことが良く解る。 「イエ」の概念が生まれるのは、白河法皇の院政時代から徐々にである。「武士団」の時代は、主にその院政時代以降であり、その意味では「イエ」による結合、継承は徐々に強まってはいたが、しかし後の世の「嫡流」、「本家」というような「父系家族制度」の概念に捕らわれ過ぎるとこの時代を見誤る。 親子の関係なら、子は親に絶対服従だが、兄弟となると互いにライバルな要素が強くなる。実は「父系家族制度」と「母系家族制度」が混在していたのが平安時代と考えておいた方が良いと思う。良い例は有名な平将門の乱である。そもそもの発端は、平将門の叔父達の「婿入り先」であって、それによって平将門の叔父達は関東、特に常陸国、上総国、下総国、武蔵国などに地盤を築いたと見られ、その「婿入り先」同士の利害対立が、平将門と叔父、従兄弟同士の抗争に結びついていった形跡がある。 12世紀に入ると「父系家族」の色彩は強くなるが、「子は親に絶対服従」に近いものがあると同時に、それ以前と同様に婚姻による義父と婿もまた強い絆とみなされている。それは家と家との政略結婚というよりは個人的であり、配偶者の父、祖父はじぶんの父、祖父にも準ずる、義理の兄弟は兄弟に準ずるという範囲で理解していれば大きくは違わない。その意味では摂関時代の「ミウチ」の世界が、まだ一部には残っていたという見方も出来る。 物語ではあるが、『曽我物語』(真字本:まなぼん)に見る頼朝挙兵前の開発領主の姻戚関係を見ると、大庭御厨の濫妨から、石橋山の合戦までの相模近辺の武士団の関係、勢力範囲がよく表されている。関東の開発領主の連合は、婚姻関係によって維持されていた形跡が極めて強い。三浦氏の頼朝挙兵から宝治合戦での滅亡までの間の外戚についても、戦国大名の政略結婚とはまた違った、婚姻関係による共同行動、運命共同体がよく見てとれる。
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