頼朝の治承挙兵の頃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:38 UTC 版)
治承4年(1180年)源頼朝が伊豆で打倒平氏の兵を挙げると、異母兄である定綱・経高・盛綱・高綱らは頼朝の元に参陣したが、義清は母方の祖父の渋谷重国とともに、平氏方の大将で舅である大庭景親のもとに参陣し、8月23日の石橋山の戦いでは頼朝の敵方に加勢して戦った。その後、10月には黄瀬川の合戦で頼朝方に転じたが、義清が当初敵方であったため、頼朝から信に置かれず、一旦は兄盛綱に身柄を預けられた。しかしまもなくこれは許され、近江守護となった父秀義に従って行動した。 元暦元年(1184年)、平氏残党の反乱である三日平氏の乱で、伊賀国の守護大内惟義が敗れると、秀義・義清父子は直ちに出陣、甲賀郡の軍勢で撃退したが、秀義は流れ矢に当り戦死した。 文治5年(1189年)の奥州合戦では兄盛綱とともに従軍し、これにより以後は、鎌倉幕府の有力御家人の一人となる。建永元年(1206年)には将軍御出を掌る奉行となり、将軍源実朝の信頼が厚かったことがうかがえる。建保元年(1217年)の和田合戦では御所を警固し、結城朝光とともに大倉に陣を張っている。
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