三日平氏の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/06/15 10:31 UTC 版)
三日平氏の乱(みっかへいしのらん)
- 三日平氏の乱 (平安時代) - 平安時代末期、伊勢・伊賀国での平氏残党平家継が起こした反乱。
- 三日平氏の乱 (鎌倉時代) - 鎌倉時代初期、伊勢・伊賀国での平氏残党若菜五郎が起こした反乱。
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三日平氏の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:22 UTC 版)
詳細は「三日平氏の乱 (平安時代)」を参照 一ノ谷の戦いの後、頼朝は義経を総指揮者として畿内西国の軍事体制を整える。土肥実平・梶原景時が山陽道に、大内惟義・大井実春らが伊勢・伊賀に配備されるが、実平・景時は平氏軍の反攻に苦しみ、頼朝は義経を総大将として西国に遠征軍を送ることを検討した。だが、その矢先の元暦元年(1184年)7月、平田家継・藤原忠清ら伊勢・伊賀の平氏家人が軍事蜂起する。激戦の末に反乱は鎮圧されるが佐々木秀義が討死するなど鎌倉方御家人にも大きな被害が及んだ。この乱の影響で義経は畿内の治安維持に専念せざるを得なくなり、代わりに範頼が西国遠征の指揮を執ることになる。 一方、東国では頼朝によって甲斐源氏の一条忠頼が殺害され、甲斐・信濃に対して軍事力が行使された。これは頼朝と同格で元々独自に挙兵した甲斐源氏を頼朝の支配下に置こうとする政策である。またこの頃から、頼朝に対して独立性の高い京武者(畿内周辺の軍事貴族)に統制をかけようという試みもなされている。
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