範頼の山陽道・九州遠征とは? わかりやすく解説

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範頼の山陽道・九州遠征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 20:05 UTC 版)

屋島の戦い」の記事における「範頼の山陽道・九州遠征」の解説

梶原景時土肥実平らが山陽道乗り出したが、6月に入ると屋島に残る平家勢力が再び山陽道に及び始め、その地の鎌倉御家人たちが平家に度々襲撃されるうになる(『玉葉』)。そのため西国への大規模な出兵が必要となった。その山陽道遠征軍指揮をとるのは当初義経予定されていたが、7月に入ると今度畿内三日平氏の乱勃発し、その畿内反乱鎮圧するのに義経専念せざるを得なくなる。そのため頼朝山陽道への出兵総指揮者を範頼に変更した同年8月7日、範頼率い和田義盛足利義兼北条義時1000騎が鎌倉出立した三日平氏の乱鎌倉方御家人佐々木秀義戦死するなどの激しいものであり、乱そのもの鎮圧された後も、首謀者一人である藤原忠清などの行方わからず都は軍事上の不安を抱えている状態だった。そのころ都の治安維持義経必要不可欠であると判断した後白河法皇8月義経検非違使尉任じた8月27日に範頼は入京して追討使任じられ9月1日に3万余をもって、京を発し九州向かった山陽道を進む範頼軍は10月には安芸国達し、いったんは長門国まで進出するが、兵糧尽きて周防国後退している。12月には備中国藤戸の戦い平行盛の軍を撃破しているが、範頼の遠征軍長く伸びた戦線平氏軍脅かされ兵糧調達窮し関門海峡知盛押さえられており、船もないため九州にも渡れ進撃止まってしまった。範頼は窮状訴え書状次々と鎌倉送っている。侍所別当和田義盛ですら鎌倉密に帰ろうとする事態になり、範頼軍の将兵の間では厭戦気分広まり全軍崩壊危機陥った思わしくない戦況鎌倉頼朝焦燥した。 一方、京に留まってい義経後白河法皇引き立てられ9月には従五位下昇り10月には昇殿許されている。義経後白河法皇との結びつき強めた元暦2年1185年1月に範頼は豊後国周防国豪族から兵糧兵船調達して、ようやく豊後国へ渡ることに成功2月1日、範頼は筑前国芦屋浦で平氏方の原田種直を破る。範頼は背後から彦島知盛衝くことを企図する兵船不足して実行できなかった。 この苦境知った義経後白河法皇西国出陣奏上し許可得た

※この「範頼の山陽道・九州遠征」の解説は、「屋島の戦い」の解説の一部です。
「範頼の山陽道・九州遠征」を含む「屋島の戦い」の記事については、「屋島の戦い」の概要を参照ください。

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