頼朝の寵臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 02:26 UTC 版)
『吾妻鏡』における祐経初見の記事は、元暦元年(1184年)4月の一ノ谷の戦いで捕虜となり、鎌倉へ護送された平重衡を慰める宴席に呼ばれ、鼓を打って今様を歌った記録である。祐経は重盛の家人であった時に、いつも重衡を見ていた事から重衡に同情を寄せていたという。同年6月に一条忠頼の謀殺に加わるが、顔色を変えて役目を果たせず、戦闘にも加わっていない。同年8月、源範頼率いる平氏討伐軍に加わり、山陽道を遠征し豊後国へ渡る。文治2年(1186年)4月に静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際に鼓を打っている。建久元年(1190年)に頼朝が上洛した際、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれて参院の供奉をした。建久3年(1192年)7月、頼朝の征夷大将軍就任の辞令をもたらした勅使に引き出物の馬を渡す名誉な役を担った。祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用された。 建久元年(1190年)7月、大倉御所で双六の会が催され、遅れてやって来た祐経が、座る場所がなかったので先に伺候していた15歳の加地信実を抱え上げて傍らに座らせ、その跡に座った。信実は激怒して座を立つと、石礫を持ってきて祐経の額にたたきつけ、祐経は額を割って流血した。頼朝は怒り、信実の父・佐々木盛綱に逐電した息子の身柄を引き渡して祐経に謝罪するよう求めたが、盛綱は既に信実を義絶したとして謝罪を拒否。祐経は頼朝の仲裁に対し、信実に道理があったとして佐々木親子に怨みを持たないと述べている。祐経の信実に対する振る舞いには、頼朝の寵臣として奢りがあった事を伺わせる。
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