墓の空白期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:32 UTC 版)
市街地埋葬禁止をうたう『新御成敗状』のオリジナルが鎌倉の法令であって、その鎌倉の法令が1240年(仁治元年)以降、仁治3年(1242年)正月までに出されたにしても、それが鎌倉における墳墓のやぐら化の直接の原因とまでは言い切れない。もしこの『新御成敗状』が一字一句違わずそのまま鎌倉の幕府法であったなら大友氏自身がそれを守っていなかったことになってしまう。大友氏が九州に土着して以降の南北朝時代、当主氏時は家督を嫡男の氏継に譲ったがその譲状には「鎌倉亀谷地壱所(先祖墓所宿所地等)、同大谷地弐所(先祖墓所宿所地等)」とある。 京都の大谷は山に登れば目の前に琵琶湖という東の外れの山の中だが、鎌倉の亀ヶ谷は鎌倉時代の初期から高級住宅地である。あるいは亀ヶ谷は『新御成敗状』に云う「府中」ではなく墳墓があっても改葬を命じられたり屋地を没収されることもないというなら、大蔵、二階堂、名越などそういう地は沢山ある。その程度の市街地埋葬禁止令では、墳墓が山に追い出されやぐらが出来たとするぼどのインパクトはない。 「やぐらの年代」で見たように、やぐら内から発掘されたものでやぐらで確認された紀年銘の最も古いものは朝比奈峠下やぐら内の板碑にあった文永年間(1264~1274年)のものである。むろん「未発見」である可能性もあるが30年前後の「墓の空白期」が出来てしまう。もう一つ、「上流階級の埋葬のされ方」で見たように山間部でやぐら以外からも骨壺に入った火葬骨が出土している。骨壺に使われた陶器は13~14世紀のものである。市街地埋葬禁止令があったとしても、あるいはやぐらが作りだされて以降も、やぐら以外への上流階級の埋葬はあったということになる。更にその時代、京においても墓所としての「勝地」は陽当たりが良くて眺めの良い場所であり平地ではない。北条義時が「故右大将軍家(頼朝)の法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と書かれるように鎌倉時代初期の法華堂も山の斜面にある。 冒頭でやぐらは横穴式の納骨窟または供養堂であるとしたが、それが鎌倉時代の後期に急に現れることは市街地埋葬禁止令だけでは説明がつかない。そこで、それ以前の葬送と供養の変遷を重ねてみる必要がある。
※この「墓の空白期」の解説は、「やぐら」の解説の一部です。
「墓の空白期」を含む「やぐら」の記事については、「やぐら」の概要を参照ください。
- 墓の空白期のページへのリンク