墓をめぐる諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 15:03 UTC 版)
宇都宮市教育委員会が現地に設置した案内板によると、文治5年(1189年)に源頼朝が宇都宮二荒山神社に奥州藤原氏の討伐を祈願し、その成就の礼に人身御供として献上された樋爪俊衡と弟の樋爪季衡の墓であるとされる。案内板の元になったと見られる記述が『吾妻鏡』にあり、次のように書かれている。 「 源頼朝は藤原泰衡を討つべく鎌倉を発ち、奥州へ向かった。文治5年7月25日(ユリウス暦:1189年9月7日)に下野国古多橋駅(宇都宮)に到着すると、まず宇都宮明神(宇都宮二荒山神社)へ参拝し、戦勝を祈願するとともに、首尾よく勝利した暁には生虜(生贄)に1人を神職として奉る、と誓った。討伐を成し遂げた頼朝は、同年10月19日(ユリウス暦:11月28日)に宇都宮明神へ再び詣で、荘園の寄進と、生贄として樋爪太郎俊衡の一族を神職として奉った。 」 『吾妻鏡』の9月15日(ユリウス暦:10月26日)の条を見ると、樋爪太郎俊衡と五郎季衡がこの日に降伏したが、俊衡は60歳を過ぎた白髪の老体であったため、頼朝は八田知家に身柄を預け、本所を安堵したとある。この記述を信じると、俊衡が宇都宮へ連行され、樋爪氏の墓に眠っているとは考えられない。 別の説では、樋爪季衡と息子の樋爪経衡(つねひら)の墓とする。1892年(明治25年)の『二荒山神社年表紀事略』に「季衡と経衡の墓が上河原橋の西南にある」旨が記されており、根拠になっている。宇都宮二荒山神社の社報「明神さま」では、季衡と経衡が神社に捧げられ、季衡が神人になったと伝えられると記し、こちらを第1の説、俊衡と季衡の墓を第2の説としている。さらに別の説では、樋爪俊衡と弟の秀衡の墓とする。
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