墓制と被葬者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/09 04:51 UTC 版)
当古墳群は、遺物からは8世紀前葉から9世紀後葉の時期に営まれたものとみられ、遺構の数からすればやや年代幅がある。北東地区のA1号墳の腰帯飾石は、律令制下の官人が身につけるもので、内訳は巡方(じゅんぽう)4、丸鞆(まるとも)6であることから、1セットの帯であるとみてよい。腰帯飾石は1点だけではあるがA6号墳からも見つかっている。また、当時の官人にとっては必携であった刀子がA1号墳、A2号墳、A6号墳が見つかっているところから、この3基については律令国家と関連の深い官人が被葬者であるとみられる。ことにA1号墳の副葬品は、武具、馬具、装身具、土器類と種類・数ともに多く、年代的には9世紀に属しているが太平洋側の7-8世紀の古墳に類似する豊かな副葬品をともなっている。 当古墳群西方約2.5キロメートルの沖積地に所在する五城目町大川石崎には、古代秋田郡衙跡の可能性のある「石崎遺跡」があり、その関連性も指摘されている。 平安時代の東北地方北部は、一部にかたちを変えた終末期古墳がのこり、周溝墓、土坑墓(木棺直葬墓)、火葬墓が加わって墓制は多様化の傾向がみられるが、当古墳群でも2つのタイプの墓が確認された。火葬墓は当古墳群では見つからなかったものの秋田県・山形県は太平洋沿岸にくらべ検出例が比較的多く、なかでも秋田県は古代火葬墓分布の北限に位置している。
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