第1の説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 09:44 UTC 版)
「神よ、皇帝フランツを守り給え」の記事における「第1の説」の解説
フランツ・ヨーゼフ・フォン・ゾーラウ(ドイツ語版)伯爵が作曲全体のイニシアティブをとったとする説。ゾーラウ伯爵の1820年2月28日付の書状の内容に基づく。 フランス革命戦争の最中である1796年の終わり、神聖ローマ帝国(オーストリア)はナポレオン軍に脅かされるなど政治的に不安定な情勢下にあった。そのため皇帝のもとでの国民の団結が強く求められていたが、時の神聖ローマ皇帝フランツ2世は優柔不断かつ悲観的な性格で、それほど国民に愛されてはいなかった。 そこでニーダーエスターライヒ州政府長官のフランツ・ヨーゼフ・フォン・ゾーラウ(ドイツ語版)伯爵は、国民の団結を促す契機となるものを作らんと、詩人のローレンツ・レオポルト・ハシュカ(ドイツ語版)に、イングランドの『神よ国王を護り賜え』を手本として、翌年の皇帝の誕生日(=1797年2月12日)に演奏する歌の歌詞を書くように依頼した。1796年10月11日、ハシュカは完成した歌詞を、ゾーラウ伯爵に送った。 ゾーラウ伯爵から作曲を依頼されたハイドンも、1791年から92年、また1794年から95年にかけてロンドンに赴いた時に『神よ国王を護り賜え』を耳にしており、それを大いに意識して作曲を行った。(ハイドンの英国訪問については「ロンドン交響曲」も参照)
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