北条義時の法華堂
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北条義時は『吾妻鏡』に「故右大将軍家(頼朝)の法華堂の東の山上をもって墳墓となす」とあり、それが法華堂であることは『吾妻鏡』仁治2年(1241年)の泰時の参拝の記事にある。鎌倉時代の初期にあっては墳墓の地には法華堂が建てられ、あるいは法華堂の傍らに埋葬されている。先に述べたようにこれは平安時代後期の上流階級での一般的な傾向である。この時代にやぐらに埋葬したという記録も痕跡も無い。逆にこれらの面々が法華堂に葬られたことをまとめて証明する記録は『吾妻鏡』にある。建長2年(1250年)に北条重時、時頼らが「右大将家(頼朝)、左大臣家(実朝)、二位家(政子)ならびに右京兆(北条義時)の御墳墓の堂々を巡礼」している。「御墳墓の堂」がここで云う法華堂である。
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