北条義時の挑発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 13:40 UTC 版)
建暦3年(1213年)、信濃源氏の泉親衡が頼家の遺児千寿を将軍に擁立して北条氏を打倒する陰謀が発覚した(泉親衡の乱)。2月、義盛が上総国伊北荘に下っている最中に、鎌倉では事件に関係したとして義盛の子の義直・義重、甥の胤長が逮捕された。 3月8日(3月31日)、鎌倉へ戻った義盛は将軍に一族の赦免を嘆願、義盛の多年の勲功に免じて子の義直・義重は赦免され、まずは義盛の面目は立った。 翌9日(4月1日)、義盛は一族98人を引き連れ、御所南庭に列座して甥の胤長の赦免を嘆願した。北条義時が現れ、胤長は事件の張本人であるので許すことはできないとし、和田一族の面前で縄で縛りあげた姿を引き立て、預かり人の二階堂行村に下げ渡した。これは義盛たちにとって大きな屈辱であった。 17日(9日)、胤長は陸奥国岩瀬郡への流罪と決まる。21日(13日)、6歳になる胤長の娘が悲しみのあまり病になり、息を引き取った。和田一族は胤長の処分を決めた執権北条義時を深く恨んだ。 罪人となった胤長の鎌倉の屋敷は没収されることになり、25日(17日)、義盛は罪人の屋敷は一族の者に下げ渡されるのが慣例であると将軍に乞い、これは許され、義盛は久野谷彌次郎を代官として屋敷に置いた。 ところが、4月2日(24日)になり突然、義時は旧胤長屋敷を泉親衡の乱平定に功績のあった金窪行親・安東忠家に与えると決め、義盛の代官を追い出した。重ね重ねの義時の挑発に義盛は挙兵を決断する。 この挙兵に将軍実朝の近臣だった孫の朝盛は反対し、16日(5月8日)、主君に弓矢を向けられないと剃髪出家して京都へ出奔するが、これを知った義盛は密事が漏れると激怒し、義直に追わせて連れ戻させた。これらの騒ぎで、義盛挙兵の流言飛語が飛び交い、鎌倉は騒然とした。 27日(19日)、事態を憂慮した実朝は宮内兵衛尉公氏を義盛の屋敷へ送り、真意を問いたださせた。義盛は「上(実朝)に恨みはござらん。ただ相州(義時)の傍若無人の仔細を問いたださんがために用意している」と答えた。 義盛は和田一族の他に、縁戚の横山党、波多野氏、そして本家筋にあたる有力御家人の三浦義村と一味同心し、義村は起請文まで書いていた。
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